「長尾総長はものを言わない」と、何かと取りざたされます(特に東大総長との対比が余りに鮮明)。 けれども長尾総長は地味ではあるが、それなりに自分の考えを吐露しておられるようです。 それが余りにも無視されすぎてはいないでしょうか。 たとえば「京都大学の新しい方向を求めて」(以下「新しい方向」)と題された今年の年頭所感は、 長尾総長が20世紀の最後の年に当たって「素直な気持を皆さんに訴え」たものでした。 所感で取り上げられたのは、キャンパス問題はじめ「存在感ある人材」の育成、独立行政法人化など、いずれも真剣な議論の対象になるべきものでした。 それがなぜか全学的な議論の火種になるわけでもない。 あるいは「京都大学の基本理念検討ワーキンググループ」が置かれているようですが、全学的に基本理念に対する議論が沸きあがるわけでもない。 そうした中、ここで紹介するのは現在職組が取り組んでいる“Dear 総長キャンペーン”にちなみ、特に独立行政法人化と国立大学のあり方について、長尾総長が綴られた文章に基づく一つの長尾総長論の試みです。
長尾総長は国立大学の独立行政法人化について、慎重ながら批判的なスタンスです。 「新しい方向」では慎重にことばを選んで、文部省や国立大学協会(国大協)の公式見解の紹介に徹しておられますが、 「なにをめざすか」(「大学はなにをめざすか」、科学(岩波)、2000年8月号巻頭言) では
・・・国立大学の独立行政法人化でいわれるような、大学に財政的基盤のないなかで、所管大臣が大学の中期目標を与え、これを実現する計画を大学側から出させて、 大臣がこれを承認するといった、およそ誰が考えても大学にとって最も不適切なことは、世界中どの国においてもおこなわれていない。(「なにをめざすか」)
と、強い調子が出てきます。 けれども世間の風の厳しさ、国立大学内の不協和音の中で、総長はためらっておられるようです。
ただ産業界を含む社会一般、国会議員等も、ほとんど全てが国立大学の独立行政法人化の方向を支持しているようでありますし、 国立大学以外からは、ほとんどどこからも国立大学のままで進むべきだという意見が出て来ていないという現実があり、 また国立大学の中でも意見は非常に広く分布しているという状況があります。(「新しい方向」)
文部省サイドは(さらには職組も)敢えて強調しませんが、総長は国立大学の共同利用機関である大学入試センターが来春独立行政法人化される (=国立大学グループの一角が切り崩される)ことも冷静に指摘されます(「新しい方向」)。 こうした中で、総長は敢えて火中の栗を拾うという挙には出ず、「それぞれの持ち場で最善を尽くそう」という一種の超然主義を標榜します:
そういった中で、少なくとも、国はその責任として国民の教育と学問の発展ということを放棄することはありえず、 学術の発展のために相当額の研究費を今後とも投入していくことは間違いないのでありますから、 我々のなすべきことは、いかなる状況になっても教育と研究、学問の健全な発展のために最大限の努力をすることでありましょう。(「新しい方向」)
高等教育のあり方についての現在の最大の不幸は、こういった状況の下で、政治や社会と大学教師、学生という三者の相互間に、お互いに対する信頼感が失われてしまっているところにあります。 ・・・それぞれが自分のできる努力をするところから出発し、相互理解の場をもうけ、相互信頼を回復する努力をしなければならないと思います。 (「学部卒業式における総長のことば」(2000年3月24日))
この文脈の中での「国」「国民」「政治」「社会」といった概念にもっと切り込んで議論していただきたいところですが、 そうした“世間”と向き合ったとき、長尾総長の眼差しは彼岸にある、大学や学問の理念という方向に向かうようです。
独立行政法人化という、いわば行政的な問題から離れたとき、総長は自らの見解を披瀝するにやぶさかでないようです。 特に「新しい方向」では、強い調子で競争の重要性を説かれました:
(本格的な大学評価が始まる・・・)京都大学はそのようなことには動じず、超然としているべきだという考え方が、もしあるとしたら、この際はっきりと捨て去るべきではないでしょうか。 世界のいずれの大学も競争を意識しています。 ・・・そういった中で、京都大学は従来にも増して一層の努力をする必要があります。
21世紀を迎えようとする今、我々ははっきりとした決意をもって、競争に打ち勝ち、世界に大きな存在感を観取させる特色のある大学になるべく努力することが必要であります。(「新しい方向」)
「競争」についてのこうしたトーンは世間の大学改革論に共通するところでもあるわけですが、総長はその後微妙に軌道修正されているようです。 今年になって総長は次のように書かれています:
・・・国立大学の教育に対しては、十分な資金を安定的に投入し、一定数のしっかりした人材を養成することは国としての義務である.教育面でのむやみな競争はかえって弊害を生むのであって、 競争は研究面で本格的に導入されるべきである。(「なにをめざすか」)
またこの9月の学位授与式での式辞では、アジア的なもの、「共生」「共存」が強く出されているのにも注目する必要があるでしょう。
総長は独立行政法人化といった生々しい政治的な問題を離れ、さまざまに学問のあり方、大学のあり方を論じておられます。 以前、入学式でプラトン的(理念的)な東大に比して、アリストテレス的(実践的)な京大について語られましたが、 それは最近の総長の発言からは、「アジア的」なものへの憧憬として結晶しつつあるように思えます。 今年の学部入学式で総長は四書の一つ『大学』の冒頭の「明明徳」「親民」「止(於)至善」についての朱子学的な解釈を挙げ、実践の学の重要性を説かれました。 それはこの9月の学位授与式での「アジア的展回Asiatic turn」の主張にも連なるものと思われます。
また総長はこの一方で、西洋近代の「批判的理性を学問・思想の中心においた時代」から、
普遍性を否定したポストモダンの時代は明らかに精神が堕落しました。安易な妥協であります。今日の社会の混迷、教育の混乱はそのことを如実に示しています。我々はこの混迷を抜けだし、ポストモダンを超えて、批判的理性を回復し、精神を高めねばなりません。(「学部卒業式におけることば」(2000年3月24日)から)
とも語っておられます。その帰着点は、アジア的な伝統への復帰でしょうか?それとももっとその先にあるものでしょうか?
最近総長は京都大学を
として特徴付けておられるようです(総長室のWEBページ)。 ここで注目されるのは、ナショナルなものから外れた大学のありようです。 「納税者の納得をえるため」に、何かと“国民”が振りかざされ、「国立大学=国策大学」というありようが事挙げされる中で、特色ある発言というべきでしょう。
「アジア的展回」とこの京都大学の理念のかかわりは、総長の文章からはまだ見えてきません。 また率直に言って、「高く」「広く」「深く」という標語(「高く飛翔し、広く交流し、深く探求する21世紀の京都大学へ」)の内実は不透明です。
まだまだ、長尾総長自身の京都大学のあり方をめぐる思索は続くもののように見えます。 総長の想い描かれる学問像・大学像の今後の展開に大いに注目したいと思います。