アルコル第2号 2001年1月30日

前号の長尾総長についての記事に対し、いささか手触りのよくない投稿(匿名)がありました。 これも一つの意見かと思われます。皆さんからのご意見、ご感想よろしく!


投稿:長尾総長の発言をどう見るか

☆私は一本のネジ。いろんなゴタゴタはネジ山が甘いせいで、私の知ったことでなし

先の「アルコル」の創刊号に載った「長尾総長の憂鬱と模索」なる記事は、 “大学の将来を思い悩む善人”として長尾総長を描くものであったが、そうした微温的な評価でよいもののだろうか? 記事で紹介されていた文章を見ても

少なくとも、国はその責任として国民の教育と学問の発展ということを放棄することはありえず、 学術の発展のために相当額の研究費を今後とも投入していくことは間違いないのでありますから、 我々のなすべきことは、いかなる状況になっても教育と研究、学問の健全な発展のために最大限の努力をすることでありましょう。 (2000年の新年の挨拶)

というわけで、京大の構成員が、文部省とつながる組織の中の小さい歯車に甘んじるように説いている。 このような姿勢で、本当に批判的、創造的な学問が作り出せるものだろうか?

☆あの橋もあの道も私が世話させていただきました。来る選挙には何分よろしくお願いします。

実は私は、これまで総長の挨拶や式辞なんぞ読んだことがなかった。 それがこの記事に触発されて、今度の京大広報に載っていた総長の今年の新年の挨拶「21世紀を迎えて」を読んでみた。 しかしつくづく、その志の低さに幻滅した。 今年の新年の挨拶は、率直に言えば、どこかの政治家の選挙演説で「橋をつけた」「道路を作った」というのを、「専攻」「建物」などに置き換えただけではないか。 今秋、総長選挙を控えているので当然かもしれないが、あまりにも寂しい。

総長はこれまでと違い、今回は「フンボルト主義」を持ち上げた。 しかしその「新しい時代にあったフンボルト主義」の内実については、何も語っていない。 一般にフンボルト型の大学というのは、目的に縛られない自由な学問・教育の場としての大学であると私は認識している。 この理念と、たとえば「金融工学」は整合するのだろうか? あるいは大学の大衆化とフンボルト主義は両立するのか? 少なくとも総長の挨拶には、そうした緊張を感じない。 前回の記事の中で、実践の学を重んじるという総長のことばの紹介で、「親民」に続いて「止於至善」(至善ニ止マル)を「止至善」(至善ヲ止メル)と誤って書かれていた(と思った)が、 実はあれは痛烈な皮肉だったのかもしれない。

☆ピンチはチャンス。お客さん、ここはIT株が買いですよ!

さて今年の新年の挨拶の最後に長尾総長は昨年同様、

・・・今後いかなる状況になろうとも我々の行う教育研究、学問の道が崩れてしまうということはありえません。 激動の時代にこそ、新しい可能性とチャンスがあるのであります。 このチャンスを利用して我々は夢を実現させるべく努力しなければなりません。 些細なことに右往左往せず、この自信と信念をもって、困難が待ちうける新しい世紀に門出していこうではありませんか。

と述べている。 この余り根拠のない楽天主義には感心する。 確かに険しい話ばかりの昨今、いろんなものごとを「些細なこと」と笑い飛ばす、こうした楽天性は必要なところだろう。 しかしここで述べられている「チャンス」や、実現したい「夢」は何なのだろうか?さもしい山師の夢でないことを祈りたい。


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