いちょう No. 99-5 99.9.22.

文部省の来年度概算要求によると、九州大学の研究科は、理学研究科が「理学府」など、すべて「学府」(大学院における教育と研究の分離を基本に構想されたもののようです。なお同時に東大に「学際情報学府」が設立される予定)に衣替えするようです。今回の「いちょう」では、深刻なキャンパス移転問題を背景に展開された、「学府」「研究院」をめぐる九州大学での一連の動きについて、九州大学の井澤さんの文章を紹介します。井澤さんは九州大学教職員組合で、長きにわたって大学改革問題対策委員会委員長を務めておられました。


九州大学の「学府」構想の経緯に関わって

九州大学地球資源システム工学専攻 井澤英二

今回の「学府」にいたる改革案として4年前に出された『研究院構想』案があります。九大の学内で、この機構改革案の具体的な内容が知らされたのは、1995年の3月11日の西日本新聞の記事によってでした。九州大学教職員組合中央執行委員会は3月13日に申入書「九州大学改革案の論議のありかたについて」を学長と各部局長に送付しました。申し入れの内容は次のようなものでした。

「大きく二つの問題があります。ひとつには、新聞の記事によって、はじめて、自分の大学の改革案を知らされるという『おかしさ』です。これまで学内の教職員にたいし、論議に必要な文書が公開されてこなかったことが問題です。・・・学内の構成員に内容が示されないままの『学内了承』は、民主主義のルールからほど遠いものと言わざるを得ません。第二は、筑波大学方式を目指すという、方向性の問題です。・・・そのような組織形態を提案するためには、慎重な調査と議論が必要と考えます」

「今後の改革にあたっては、・・・民主的な討議を積み上げ、真に教育研究上の要求から出された案を持って、文部省との協議に入るべきであると考えます。・・・非公開・非民主的な改革論議の先にある九大の将来にたいして、危機感を覚えるからです」

しかし、1995年3月30日の評議会は研究院構想を含む「九州大学の改革の大綱案」を決定してしまいました。このような構想が十分な学内論議なしに決定された背景には、キャンパス移転問題があります。新構想を打ち出すことによって、1991年に決定したものの財政困難、環境破壊等の問題を抱えて難航している移転を一挙に進めたいとの思惑が働いていたといえます。

その後、この構想は日の目を見ることなく、全学的な議論も行われないままに忘れられた状態でした。ところが、1999年春の学校教育法の改正(第66条* )によって、3月中旬、文部省からの要請があり、九州大学として急遽、概算要求を出さざるを得ない状況になったようです。4月8日将来計画小委員会(部局長で構成)に「研究院(仮称)制度の導入について末骨子案末」が提出されました。教育組織としての学部・研究科と教官の研究組織としての研究院を分離する。研究院に所属する教官が、学部教育と大学院教育に平等に責任を持つシステムであると説明されています。

4月16日の将来計画小委員会では、多くの部局から慎重審議の意見が出されました。各部局から出された代表的な意見として、

「『研究院構想』の理念は、学部と研究科の両方に対する『責任体制』の確立をうたうものであるが、実際には、両方に対する無責任体制を生み出すことになるのではないかと危惧する」

「『研究院構想』は、九大の組織を大きく変えるものであり、数年前にこの構想は出たとはいえ、その後・・・大学を取り巻く環境は変わっており、教官への情報公開と、教授会での合意が必要である」

などがありました。しかし、こうした意見は公表されることなく、『研究院構想』の概算要求は5月21日の評議会で了承されるという急展開になりました。

その後の協議の過程で文部省から「研究科とは本来教育研究上の基本組織である。研究院=教官組織とすれば、研究科という名称は使えないことになる」と指摘され、6月22日の将来計画小委員会で教育組織は『学府』とすることが提案されています。工学部の場合、『学府』という名称については7月14日の専攻長会議で報告があり、意見があれば7月27日の評議会までに出すこととされました。

以上の経過から言えることは、研究院構想が十分な学内論議を経ていないこと、『学府』は学内議論のなかからできた名称ではないということです。九大の主体性のなさを報告したようになりましたが、背景にあるキャンパス移転の深刻な問題を抜きにして、研究院構想と『学府』をめぐる奇妙な状況は分かっていただけないと思っています。移転問題については、機会があれば紹介しましょう。


* この改正で大学院に「研究科以外の教育研究組織」をおくことを可能とした。


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