さる11月10日、国立大学理学部長会議の「危うし!日本の基礎科学」という、独立行政法人化を“憂う”声明が出されました。今回のいちょうでは、この声明と、声明についての丸山理学部長の談話、寄せられた感想を紹介します。
10月21日、22日の両日、国立32大学の理学部長会議が行われた。そこで出された、独立行政法人化問題について何らかの声明を出すべきであるという意見に対し、賛同の声があがり、東京・埼玉・京都・名古屋・茨城各大学の学部長が起草委員となり、声明を作成、発表することになった。
声明を作成するにあたって、特に留意した点は、国民一般に理学への理解をいかに得るかということだった。そのため、理学が「学者のお遊び」程度に見られていることを考慮し、「理学」という言葉も「基礎科学」という言葉に置き換え、科学の成果が暮らしに役立つことを前面に立てることにした。
「基礎科学の研究成果が人々のくらしにまで届くには長い時間がかかるので、たかだか数年で評価して仕事をさせようという、独立行政法人制度はなじまない」
というわけだ。そのため、理学あるいは広く学問研究一般の持つ「文化」という側面を、声明からかなり落とすことになった。このあたりは理学のどういうトピックを取り上げるかということも含め、科学者の目から見たとき批判は免れないだろうが、いたしかたないだろう。
ともかくこの声明は国民一般に対し、
「理学というものは迂遠ではあるが、人類の福祉に役立ってもいる」
という認識を求めたものとして、理学部のみなさんには理解して欲しい。
今回出された理学部長会議の声明を一読して、理学部ともあろうところが、ここまで功利的な記述を余儀なくされているのかと、寂しい気持ちにさせられた。例えばこの声明には「真理」という言葉は登場しない。もう30年前のことになるが、京大理学部協議会は1969年2月20日の産学協同に関する声明の冒頭で
「大学は古今を通じて真なるものを求めてその研究を深め、また社会のため真理を追求する人間の養成に最大の努力を払うべきものである。従って大学はいたずらに時の社会情勢に追随することなく、常に批判的存在としての機能を保持しなければならない。さらに大学は科学研究の健全な発展を推進し、その成果を通じて国民の福祉に奉仕する責務を負っている。・・・」
と述べた。“真なるもの”に対するこの憑かれたような姿勢こそ、われわれの原点にあったものではなかったか。果たしてこうした言葉は、普通の人々に、もはや届かないものになっているのだろうか。あるいは理学部からこうした言葉が聞こえなくなった時、どこにこうした言葉を期待できるだろう。3年前に出された「科学技術基本計画」でさえ
「基礎研究の成果は、人類が共有し得る知的資産としてそれ自体価値を有するものであり、人類の文化の発展に貢献するとともに、国民に夢と誇りを与えるものである。・・・自然と人間に対する深い理解は、人類が自然との調和を維持しつつ発展を続ける大前提でもある。」(1章Ⅰ)
と述べていた。われわれは人々に対し、われわれを取り巻く世界、自然を理解することの意義を、そして独立行政法人という在りようが、そうした自然と人間のあり方それ自身を問う場にふさわしいかどうかを説くべきではないか。