地鉱分会の冨田さんは、この夏、南の国に行って来られました。以下は、冨田さんのインドネシア印象記です。
熊襲人を自称する私が、こともあろうジャガタラ(インドネシア共和国)に出かけることになったのは、今年の4月である。日程は7月13日から10月12日までの3ヶ月間、出張先はバンドン地質博物館ということである。この話しに割と簡単にのったのは、「ひょっとしたら、私の祖先が和寇であって、インドネシアあたりを荒らしまわったのかもしれない、また、1942年から1945年まで日本人(日本軍)がかなりひどいことをした、これらの事を実感できるのではないか」という漠然とした感慨からである。本音は「一度も赤道をまたいだ事がなかった」からかもしれない。
ともかく、7月13日にジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港に下り立ち、インドネシアでの生活が始まった。ジャカルタは大変蒸し暑く、京都の真夏とそう変わらないが、私の仕事先はバンドン。ここは標高700mから850mの高地、日中の気温は30度を越えるが夜は20度前後、湿度約30%(だだし6月~9月まで乾期)、少しほこりが気になるが快適な避暑地である。出かける前に「暑いところで御苦労さん」とねぎらってくれた人があったが、実は、京都より過ごしやすいので申訳なく気がひけた。
インドネシアでの一日は、朝の4:00からのモスクでのお祈りからはじまる。この時間私が床の中であるのは当然であるが、ラウドスピカーでボリューム一杯にやられると目を覚ます。インドネシアの人はほとんどこの時から起きて仕事が始まる。午前6時ごろ日の出。日の出と同時に、急に明るくなる(午後6時頃に急に暗くなるのであるがこれは赤道近くではあたりまえ;理由がありますよ)。パッサール(市場)は日の出と同時、オフィスは8時に仕事が始まる。宿舎では朝食は6時30分にOK。朝はぐずぐずの私には、なれるのにひと苦労。仕事場へは8時出勤(とても想像できないでしょう)。お昼は日本と同じ。しかし、ここでお祈りは、きっちりとある。4時には仕事が終わり、残業はほとんどない(民間ではあるそうだ)。そそくさとみんな家路を急ぐ。そして7時頃に夕食。10時には就寝して一日が終わる。
こうみると、インドネシアの人達は、働き者で、夜の遊びもなく極めて優等生のように思える。しかし、昼間の仕事ぶりは、というと、個人差はあるが、能率良くてきぱきと、という状態ではない。とにかくおしゃべりが好きである。
これは年中同じ日々が続き季節の変わりがない、いつも「明日があるさ」という恵まれた気候条件に起因するという説がある。とかく「いらち」の日本人にとってあまりよい雰囲気ではない。生活のパターンが「一日はあるが一年はない」といった感じである。ここで私は「人間の生活のパターンは気候・自然条件に大きくコントロールされている」という命題が理解できた気になった。
もう一つの戸惑いは、インドネシア、特にジャワ島の女性はよく働き(管理職にも多く就いていますよ)、男性はよくぶらぶらしている、ところがこの事を女性があまりとがめだてしないことである。いろいろな説があるが、今も明確には理解していない。
まだまだ戸惑いは多いがこの辺で終わることにして、「オランダは300年植民地支配をして多くの悪事を残した。日本は3年間占領してオランダと同じくらいたくさん悪い事をした。日本の占領は歴史的事実としてまだ棚上げできない」と職場で相手をしてくれたインドネシア人研究者の言葉が今も重くのしかかっている。