阪大の遺伝情報実験施設で、6月24日の深夜に、32P、14Cの入ったアンプルを盗み出し、実験室内の床や机、廊下にまいた疑いで、阪大微生物病研究所の技官(40)が、7月21日逮捕されました。理学部のわれわれにとって、この事件はショッキングなものでした。今号のいちょうでは、同じく生物関係で放射性同位元素を扱っておられる化学の白石さん と、物性関係でX線を扱っておられる物理の宮地さん に、コメントを寄せていただいています。
阪大の遺伝情報実験施設で放射性同位元素の入ったバイアル(生化学関係でよく用いられる小型容器)が紛失し、施設内で放射性同位元素による汚染が発見されたという最初の新聞報道を読んだ時は、放射線管理に携わる者として、どうしてそのようなことが起きたのか理解し難く、困惑しました。ふつうに放射性同位元素を使用している限りありえないことだからです。その後、施設利用者が故意にばらまいたということが報道されて、「事故」ではなくて「事件」だったことがわかり、ようやく事態がのみこめました。
この事件は例えば(極端な例えですが)、研究室内のガスバーナーで大学に放火したというようなことと同じ種類の事件であると考えています。ガスバーナーを使ったあとに、ガスの元栓を閉めるように指導することはできますが、故意に火を付けようと考える人がいた場合、それを管理によって防ぐのは極めて困難なことです。ただ、今回の事件が少し違うのは、この事件の場合、放射性同位元素をばらまいた人は、それによって不特定多数の人に障害を与える可能性がある、ということに対する認識が薄かった可能性はあります。
大学などで研究に用いる放射線は、放射線障害防止法という法律によって規制されています。新聞報道によると、今回の事件では、威力業務妨害の他に、異例のことですが、放射線障害防止法違反も適用されたそうです。この法律は、名前のとおり「放射線障害を防止し、公共の安全を確保すること」を目的としてつくられています。理学部でも、当然、この法律にしたがって放射線を使用しており、そのために教育訓練が行われています。この事件を契機に、「放射線の誤った使用は不特定多数の人に障害を与える可能性があり、場合によっては当人が処罰される」ということを、放射線を研究に用いている方は改めて認識していただきたいものです。
6月下旬に阪大遺伝情報実験施設で放射性同位元素(RI)が盗まれ、ばらまかれました。事件の容疑者が逮捕され、残りの放射性物質も見つかり、放射能汚染の広がる恐れは無くなったものの大変なことです。
7月24日に京大理学部で行なわれた「放射性同位元素等取扱者の再教育訓練」で、理学部放射線管理委員長の今井教授(物2)は「京大理学部では、阪大で事件を起こしたような人は居ないと信じています」と述べるにとどまり、RI使用の資格を持っている人が悪意を持って行なうことを防ぐ管理は困難であることを認めています。もっとも、新聞報道によれば阪大の場合にはIDカードを使わずに施設に入れたという、管理の甘さがあった面もあります。再教育訓練の出席者の中に「管理技術・法令の教育も大切だが、心のふれあいが必要だ」という声がありました。ここでは、大学の管理責任と放射線について事実のみを書きます。
放射線の存在は人間の五感では感じられず、放射線検出器でしか分かりません。似たようなものに電気があります。電気も通常は電線や電気機器に入っていて、人間の五感では分かりません。もちろん感電、電気椅子、落雷により生命にかかわることもありますが、この場合には我々はちゃんと見ることができます。それに、遺伝への影響はありません。放射線障害は原爆の直接被爆をのぞいて、見ることができません。あのチェルノブイリの事故でもIAEA(国際原子力機関)は、民間被爆者への放射線障害は皆無であると発表しました。週刊朝日でも「阪大で盗まれたRIを仮に全部飲み込んだとしても、ただちに生命に関わる量ではない。それにも増して深刻なのが研究への影響である」と述べています。あとになって、放射線障害が見えるようにならないと、問題にならないのです。
私達は少数の管理責任者の好意の下でRI、放射線を使用して研究し、原発労働者の被爆の下に電気を使って暮らしています。
放射線管理は「今をときめく」科技庁が行なっており、大学でRIを使用するには、科技庁の行なう難しい試験に合格し、実習(とても高い費用)を経て得られる資格「放射線取扱主任者」が各施設の責任者として居なければならず、しかも、その責任は重大で、過失があれば懲役刑が待っています。したがって、だれもそんな責任者にはなりたいとは思いませんから、放射線取扱主任者の資格を持っている人が少なくなっています(私も持っていません)。RIの使用は現代の科学、特に遺伝子に関する研究には必須であると云われているのに、結局、少数の方の好意にすがって、多数の(理学部で600人余)教員・研究員・院生がRIを使用して自分の研究を続けているのです。