いちょう No. 97-30 98.4.30.

 ひさびさに発行された理学部弘報(No.149、98.3.30発行)に、丸山元学部長のエッセイ「時の流れ」が掲載されています。今でも、「職組は産学協同に反対」と信じておられるオールドタイマーも多いようですが、産学協同に対する職組の姿勢も、やはり時代ととも変わってきました。ちょうど「70周年事業 に反対した人が100周年事業の先頭に立つ」ように。

 しかし、かって問われたこと、そしてその図式自体は、実はあまり変わっていないようにも思われます。職組の古文書の中にある、およそ30年前、1969年1月に、「化学教室大学院会70周年特別委員会」の手で刊行された、「化学教室70周年『記念』事業の本質と闘いの意義」なるパンフレット(B5版140ページ)を一読すると、今も語られるであろうようなことばが、すでに語られていたことに驚かされます。当時、何が問われていたのか。そして今、われわれにそうした問いかけが院生諸君から向けられた時、われわれはどう応えるのか。こうした問題に寄せて、今回のいちょうでは、化学70周年記念事業受け入れを拒否した当時の、理学部協議会の「声明」を掲載します。(原文縦書き)


産学協同に関する理学部協議会の声明(69.2.20)

大学は古今を通じて真なるものを求めてその研究を深め、また社会のため真理を追求する人間の養成に最大の努力を払うべきものである。従って大学はいたずらに時の社会情勢に追随することなく、常に批判的存在としての機能を保持しなければならない。さらに大学は科学研究の健全な発展を推進し、その成果を通じて国民の福祉に奉仕する責務を負っている。科学研究の健全な発展のためには、研究者の自主性が保障されることが不可欠の要件であり、研究者の自主性を尊重しつつ、その創意が発揮されるよう、科学研究が必要とする物質的・人的諸条件が整備されなければならない。従って政府の文教政策は、この立場において科学諸領域の調和のとれた発達をはかることを第一義とすべきである。

われわれは前記のような大学の理念にもとづいて、戦後の荒廃の中から科学の発展のため、研究と教育に努力してきたが、それを支える政府の文教政策は、一貫してはなはだ貧困であった。のみならず近時、科学研究の成果を、その産業技術的側面においてのみ把え、産業界の利益を主眼とする立場から、たとえば昭和35年10月の科学技術会議の答申などにも見られるごとく、大学を技術の開発および技術者の大量養成の場として位置づけしようとするかの如き方策が政治面にも現れるに至った。大学は、社会とのかかわりにおいて、産業界と無縁ではあり得ないが、われわれは右のごとき政策に同調し得ぬものであり、また特に理学部における研究が基礎科学研究であるという観点からしても、前記の立場からする「産学協同」と無縁であると考える。

当理学部協議会は、昭和42年夏、化学教室創設70周年記念事業 について協議した際、その趣旨等について数回の検討を加えた上、これを従来の寄付取扱いの立場において、その受け入れを了承した。しかし、その後討論を深めた結果、政府与党筋の大学に対する最近の動向から見ても、この寄付を受け入れることは前記「産学協同」の悪影響をこうむる危険性があると判断し、この度これを受け入れないこととした。

われわれは、前記の観点にたつ「産学協同路線」に反対し、これとかかわりをもたないことを声明すると共に、久しく大学を貧困の中に放置し、さらに大学を産業界に従属せしめようとする如き、現在の文教政策・科学技術政策に強く抗議するものである。

昭和44年2月20日
京都大学理学部協議会


化学70周年記念事業: 1967年の70周年へ向けて、1963年夏頃から準備が進められ、64年秋に記念事業会設立、66年秋から募金活動開始(5階建ての建物を建て、3階以上を受託研究員用の施設とするプランであった)。67年春になって、地鉱の建物計画との競合、さらに産学協同の是非が問題となる。67年8月、理学部協議会は募金計画(一部文面変更)を承認。しかしその後も議論は続き、68年秋には、化学院会は正式に記念事業反対の姿勢に転じる(この頃、平行して大学紛争が激化しつつあった。あるいは理学部における紛争の一つの焦点が化学70周年記念事業であった)。69年2月20日の理学部協議会は上の声明を発表し、理学部としては受け入れないことを表明。化学70周年記念募金で集めた金は、研究基金として運用され、84年「日本の基礎化学の歴史的背景」という冊子を発行、終結した。


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