いちょう No. 97-29 98.4.9.

現在の学習指導要領で、教科の選択性が大幅に拡大された結果、基礎学力に大きなひずみが生じてきているようです(以前、米国で“ショッピングモール・ハイスクール”[たしかベストセラーの本の名前]というのが言われたのと同様の現象でしょうか)。理科教育におけるこうした問題に、東大の松田良一さんたちは、この1月にフォーラムを開くなど、積極的な提言・啓発活動を行っておられます(いちょうNo. 97-19参照)。今回のいちょうでは、松田さんの論説を抜粋して紹介します(詳細は、「高等教育フォーラム」のホームページhttp://www.komaba.ecc.u-tokyo.ac.jp/~cmatuda/を参照下さい)。


日本の理科教育が危ない ―― 問題多い2科目選択制

松田良一 氏(東京大学大学院総合文化研究科)

高校で1度も生物の教科書を開かなかった学生が医学部に行き、物理学を勉強したことのない学生が機械工学を専攻する・・・。こんな事態が、全国の大学とりわけ理工系学部で生じ、少なからぬ混乱を起こしている。

4年前に施行された理科2科目選択制を内容とする新学習指導要領で育った学生達が、昨年4月から大学で学び始めたためだ。選択しなかった科目については中学校卒業レベルの知識しかないため、大学の講義を高校レベルの理科の補習から始めないと、全く理解できない学生が多数出現している。このまま現在の理科2科目選択制が続けば、「科学技術創造立国」の将来にも大きな影を落としかねない。

現在の新学習指導要領が施行されたのは1994年4月。それまで高校で行われてきた必修科目「理科I」(理科4領域[=物理、化学、生物、地学]の学問体系の基礎を学ぶ)が撤廃された。その代わりに登場したのが、「総合理科」(科学の考え方、歴史などを教える選択科目)や「物理IA」、「物理IB」、「物理II」など細分化された合計13科目から、2領域の2科目だけを選択すればよいという理科2科目選択制である。

影響多い高校での学習の偏り

こうした変更は、「生徒の特性、進路、学校の実態等に応じた適切な選択履修が可能になるようにした」(文部省の高校学習指導要領解説より)ためとされている。しかし、この制度が採用された結果、将来の日本を支える大学そのものが、足下から揺らいでいる。

私の所属する東京大学教養学部生物部会では、理科II類(主に生命科学系学部に進学する)と理科III類(医学部に進学する)に在籍する学生517人を対象に、大学での必修科目「生命科学基礎I」の夏学期の成績と、高校時代における生物の履修の有無との相関を調べた。その結果、受験で生物を選択しなかった学生集団のうち、高校で生物を履修した学生(主に旧学習指導要領で育った浪人生)と履修しなかった学生(主に新しい理科2科目選択制で育った現役生)との間で平均点にして12点(100点満点)もの差が生じたことが明らかとなった(朝日新聞1997年11月28日「論壇」参照)。

このことは、新学習指導要領による高校時代の学習の偏りが、大学入学後の成績の差として大きく跡を残すことを意味している。12点は小さな差と見えるかもしれないが東大の進学振り分け制度からすると極めて大きな差といえる。この制度では、入学後1年半の成績で志望する専門学科に進学できるか否かが決まるが、平均点で0.1点の差に泣くことも多いからだ。

こうした状況を放置すれば、大学教育は足下から突き崩されていくおそれがある。

この様な危機感から、今年の1月5日、東大大学院農学生命科学研究科の正木春彦助教授とともに、私は東大駒場キャンパスで「日本の理科教育が危ない」というシンポジウムの開催を呼びかけた。当日は350人を越える参加者があり、会場の大講義室は満員になった。

緊急シンポジウムでの議論

シンポジウムの内容は、必ずしも理科2科目選択制に焦点が絞られたものとはならなかったが、現在私たちが直面している「理科教育の危機」を幅広くとらえる上で重要な指摘がいくつもあった。議論の一部を紹介したい。・・・・

国立教育研究所の松原静郎化学教育研究室長は、95年に実施した小学生と中学生の理科への興味と成績に関する42 カ国・地域の比較調査結果に触れ、日本の子供は他国に比べ成績は悪くないものの、年齢とともに理科嫌いが多くなると述べた。・・・・

最後に、小山幸子東大大学院研究生は自らが行ったアンケートの結果から、高校生の多くが2科目選択制を「嫌な科目をとらなくて済む制度」と評価しているのに対し、高校の理科教師や大学の理工系教員の多くが選択制の導入が学生の学力低下や教育のしにくさにつながると感じていると指摘した。・・・・

討論では、高校教育と切り放せない大学入試について議論が集中したが、大学入学後の単位認定を厳しくすることが日本の大学を国際的な評価に耐えるものにする上で必須であることも指摘された。また、入試に抽選を取り入れたり、全員入学させ、毎学期ごとに学業成績で在籍者を絞っていく制度を大学はなぜ取り入れないのかといった疑問も提起された。

指導要領、早急に改善を

シンポジウムでは議論されなかったが、理科教育にまつわる問題はまだ多い。例えば、教員免許取得のために大学で履修しなくてはならない科目があまりにも多いため、理学部などは4年間では履修が追いつかない。かつて理学部ではほとんどの学生が教員免許を取得していたが、現在は免許を取得しようとする学生は激減。理科の教員の質にも影響が及びかねない状態だ。・・・・

「物理、化学、生物、地学の理科4領域を含む基礎学習を必修とする。理科上級科目はその基礎に立脚し、生徒の適性、希望に応じた選択とすることが望ましい。」・・・。今回のシンポジウムでまとめた文部大臣あての要望書の一部である。高校理科教育指導要領の2科目選択制度の早急な改善を改めて訴えたい。


「いちょう」へ