2001.4.1. last revised 2022.3.24.
木寺さん さよならセミナー今春4月から、量子化学研究室の木寺詔紀さんが、横浜市立大学に移られます。 この機会に、木寺さんの「さよならセミナー」を、さる3月8日の昼下がり、化学の第1会議室で世話人代表の井川淳志さんの司会で開きました。 このセミナーは、最近、化学教室に入ったビデオプロジェクターの使い初めともなりました。
木寺さんの話は、「化学で生物をやること」を問う、鋭いそして暗い洞察に満ちたものでした。 ここではその一端を、ぼくのメモに基づいて再現してみようと思います。 なおセミナーのタイトル「錬金の幻夢にこがれ・・・」は、澁澤龍彦の一文のタイトルからとった(付けた後で木寺さんは後悔したらしいが・・・)ものだそうです。
高校時代、私(木寺さん)は生物にかかわる研究をしてみたいという、漠然とした思いを持っていました。 その思いは、未知の広大な、そして極めて身近なフロンティアでの、ワクワクする、心ときめく「発見」へのあこがれだったといえるでしょう。
そうして乗り出した生物の世界で、私は、生物のサイドから出発した人たちと自分のちがいに気づかされるようになりました。 生物現象について「理解する」あるいは「発見する」ということに、どうも2つの側面がある。 ひとつは列挙し同定する(identification)こと。もう一つはまさに「発見」(discover)。
私はこの列挙型の理解というのが、どうも虫が好きません。 学生時分に大きな感銘を受けた、まさに東の空に太陽が昇るような感動を覚えた本に、ジャック・モノーの「偶然と必然」があります。 このモノーの本は、従来の生物学を解剖学(anatomy)と分類学(taxonomy)であったとし、それとちがうありようを、初期の分子生物学の成果の上に立って示したものだと思います。 一見、何の関係もないように見えることを、ある物理的・化学的な法則で一刀両断、ずばりと切ってみせる。 そこがたまらないんです。 そしてそれは生物の立場から物質化学を進めることを強く励ますものでした。
思い返せばそのころの分子生物学というものは、今日考えられているものより、もっと豊かなものを含んでいたようです。 当時の分子生物学は、生物物理学をその中に含み、さらにもっといろんな可能性を孕んでいたと思います。 それがその後、さらに洗練の度合いを増し、今日では分子生物学は、ほとんどゲノム科学となってしまいました。
この流れは
という形で理解できるでしょう。 「唯遺伝子論」の世界、遺伝子の意味論としての分子生物学の登場というわけです。
この世界観に立ったとき、「色が黒い」、あるいは「指が5本」という生物の「表現型」は、ある遺伝子の並びと等価なものとして理解されます。 こうした営為は、遺伝子の解読、annotation(注釈)となり、最近実現した、人間の遺伝子の全解読という結果をもたらしました。
では次のステップは? この後に来るものとして想定されているのが、遺伝子の間の関係、カスケードを明らかにすることです。 つまり実際の生物の機能の発現には、タンパク質など生体関連物質が多数、複雑な因果関係で結び合わさって関与します。 これは、先ほどの「唯遺伝子論」では、遺伝子の間の因果関係に読み替えられる。 この遺伝子のコードの間の関連を読み解くことが課題となってくるわけです。 これをターゲットにして生物情報学 bioinformatics が勃興しています。 そこではいよいよ分子の実体は影が薄くなっていきます。 というのは最近流行の胚細胞にしろ、分子の立場から理解するにはあまりにも複雑だからです。
それではタンパク質の構造化学などはもういらないのか? そうではない。実は bioinformatics に組み込まれているのです。
遺伝子の解読といわれる作業のもっとも重要な手法はホモロジー homology ということ、端的にいえば「似ていたら似ている」ということです。 「目が赤い」といったある表現型が、ある遺伝子の組について現れるなら、一つの表現型と遺伝子の組とが結び合わされるというわけです。 しかし遺伝子は進化の過程でさまざまな変形を受け、なかなかこのホモロジーを適用するのが難しい。 そこでタンパク質について、ホモロジーを適用しようというわけです。 ここで登場するのが
「タンパク質の構造は(進化の過程において)より保存される」
というルールです。 こうして
遺伝子 ⇔ タンパク質 ⇔ 表現型
という形で、遺伝子という情報と表現型を媒介するものとして、タンパク質の化学は位置付けられる。
ここで登場するタンパク質の化学は所詮は分類学ということになってしまいます。 最初に言いましたが、私の、あるいは多くの化学の立場から生物の分野に参入した者にとっては、それでは分かった気がしないのです。
こうなる原因は、タンパク質がきわめて多様な存在であることに由来します。
あるタンパク質について、何かおもしろいことがわかったとしても、他のタンパク質では裏切られてしまう。 まったく同じ加水分解なりの機能を持つ酵素で、反応部位の構造を比較してみると、きわめて多様なのです。 タンパクにはプロトタイプを拒む構造があるといってもよいでしょう。
端的にいえば、タンパク質は「合理的」でないのです。 酸化還元など、ある特殊な機能のためにだけ存在しているわけではない。 ある機能だけを追及すれば、タンパク全体としての安定性が損なわれてしまうことがありうるわけです。 ですから合目的的なアプローチは失敗します。
というわけで、何か病気の特効薬を作ろうということになると、それは特殊目的を志向したものにならざるをえない。 一つのタンパクについて、その構造と機能を記載して分類していくというアプローチ。 かってモノーの本で私などが感動した、ある原理でさまざまな現象がスパスパ切れていくという「発見」ではなく、「列挙型」の理解になるわけです。 この個々のタンパクの構造と機能を、手早く調べる手法の開発が、最近、"high through-put" という言葉で論じられています。 そういう「量」を積み重ねることで新しい「質」が見えるかというと、それは結局のところ、この「列挙型」の理解の中に止まるだろうと私は見ています。
一個一個のタンパク質を見ていては一般論には結びつかない。 だったらというわけで「タンパク質の粗視化」というアプローチで、もっと一般的な法則性に迫ろうという考え方もあります。 でも従来から言われているような、「貧溶媒中の線形高分子」といったものでは、分子の実体を考える立場からは物足りません。
遺伝子 → アミノ酸配列 → タンパクの立体構造 → タンパクの分子機能 → 細胞機能
こうした一連の流れの中で、アミノ酸配列から、多様な相互作用を通じて、多様な立体構造、分子機能が出てくるプロセスに、何か物理的な原理を見てみたいのです。
というだけで、何か見取り図を持っているわけではありませんが、いくつか材料はあるように思っています。 たとえばタンパク質の折れたたみ folding などは、いささか手あかがついた感があって興味を感じませんが、何らかの symmetry rule のようなものはあるのではないか。 分子の構造と機能の間に、何かちがう原理があるかもしれない。
分子の構造が似ている analogous であるという時に、われわれは分子の対称性に注目してみることが多いのです。 たとえば TIM barrel といった構造です。 でも同じ TIM barrel 構造を持っているタンパク質でも、機能がぜんぜん違ったりするのです。 分子構造が analogous であることと、機能が homologous であることとは単純に等価でない。 こうした可能性の追求も、結局は、エピソードのようなものでしかないかもしれませんが・・・。
こうした可能性の追求に疲れた時、私も含め多くの人は、さまざまな計算手法など、いわば方法論に走っていくんですね。 それが悪いとは言いません。 でも最初の志からすると、寂しいといわざるを得ないでしょう。
木寺さんには、化学教室のネットワークや計算機環境一般についても、また職員組合でも大変お世話になってきました。 学問的であれ政治的であれ、さまざまな問題への鋭い切り込みとともに、妙にはにかんだ、何か暗(冥)いスタイル。 それは他に求め難いものでした。
数年前、生命科学研究科ができる時、職員組合の集まりで、木寺さんから生物を化学でどう位置付けるかについて話を聞いたことがありました。 その時、何かよく理解できなかったことが幾分か、木寺さんが去っていかれる今、もう一度話を聞いて、何ほどか分かってきた気がしています。
木寺さんの話が終わるころ、折からの寒空に風花が舞い始めました。
錬金の幻夢にこがれ春の雪
ふと、そんな句を口にしているぼくでした。