液体や溶液についての安直な直感に基づく、大仰に構えたもっともらしい理屈に、率直にいってぼくはうんざりしています。 というのは、たいていが“結果論”にすぎないからです。 たとえば、室温以下で水に圧力をかけると粘度は小さくなります。 これをよく行われるように、水の構造が破壊されたためだとして説明したとしましょう。 ところで、水蒸気の粘度も圧力をかけたら小さくなります。 それではこれも「水蒸気の構造が破壊された」ためなのでしょうか? 日常の“常識”や“直感”に安易に寄りかかった、ご大層な分子論的解釈はたくさんです。
液体の水の粘度の圧力依存性。 水の構造が加圧によって破壊された! |
水蒸気の粘度の圧力依存性。 水蒸気の構造が加圧によって破壊された!?? |
でもだからといって、ただ測ればよいという実験至上主義(当然ながら、ただ計算さえしておればよいと言う、計算機シミュレーション至上主義も含みます)で、この自然をよりよく理解できるとは思いません。 ぼくたちは、この身の丈で自然と向き合っているのであり、自然を理解するということは、自分の身の丈を理解するということでもあるはずです。 実験することで、身の丈を超えたところまで見ることもできるでしょう。 でもそれを理解するのは、やはり“常識”や“直感”で固められた、その身の丈の自分でしかありません。 今のぼくたちに一番必要なのは、そうした“常識”や“直感”を磨くことであるように思います。
ですからぼくはできるかぎり、分子の感じる「力(応力)」や「化学種」といった、従来あまり前面に出ることのなかった、直観的な概念を重視する形での学問の展開を図りたいと考えています。 たとえば、この数年「結合数」とその分布を用いて、分子間相互作用の溶質分子の熱力学挙動に対する効果を理解しようと試みを進めています。 この「結合数」というのは、100年以上にわたって化学者が用いてきた、多種の溶媒和分子間の平衡による溶液の記述を、厳密なモデル化によって復活させたものに他なりません。 「分子種」という概念は、生物の分類学同様、ものに名前を付けるというあまりに当然なものであったがために、その有用性を真正面から取り上げて議論されることが、あまりに少なかった思います。 この「結合数」「溶媒和分子」の方法と同じことを、分配関数から始めて、分配関数に対する相互作用パラメーターによる汎関数微分により、高次の相関関数についてのモーメントを導き、そこから結合数分布を導出するという、教科書的な方法も可能ではあるでしょう。 しかしそうしたアプローチは、そもそもの動機づけを欠いており、科学する喜びとは遠いように感じています。
同じように、ぼくはZernikeとPrinsが一次元の剛体棒系の分布関数から出発して液体の構造因子を論じた1927年の論文(Z. Phys. 41, 184 (1927))を愛しています。 それは彼らが分配関数(母関数)に安易に腰を下ろさず、もっと原理的・直裁な形での液体論の展開を試みたからです。 その後の液体論の発展は、彼らのアプローチを分配関数の方法に吸収していく方向を選びました。 けれどもぼくは、統計力学の体系の中に収まった今日の液体論に整った美しさを感じる一方で、ZernikeとPrinsのアプローチの持っていた手応えが失れていることを寂しく思うのです。
直観的なアプローチは、その直観を共有できるだけの体験を持たないものには粗野なものとしか映らないし、直観的なアプローチから帰納的に作り上げられた体系には、局部を過大に評価する危うさのあることは否定できません。 けれどぼくは、そうした体験や危うさに、まっとうな人間の科学のありかを感じています。