2000.4.10. last revised 2022.3

何が当たり前で、なぜ当たり前なのか?

分子論に立脚する流体の研究は、前世紀のvan der Waalsらに代表される古典的な研究以来すでに100年以上の歴史を持っています。 ですからもう確立された分野のように見えますし、関係の雑誌をひも解いてみれば、流体構造などについてのモダンな研究で賑わっています。 けれども、一歩、その内実に踏み込んでみると、そうした研究を動機づけるべき、流体に対する分子論的な描像の貧しさに気づかされます。

たとえば、水とアルコールを混ぜると体積が1割程度減少することは“異常”と呼ばれます。 そしてこの“異常”を明らかにするために、蒸気圧、熱容量などの熱力学的な測定はもとより、粘度など輸送物性、分子振動スペクトル、X線回折など多くの実験的手法が動員されてきました。 そして、「米と大豆を混ぜたら体積が減る」という風な説明が行われます。 しかしそれでは、“正常”とみなされる系はどうなのでしょう。 丸い分子からなる四塩化炭素と、細長い分子からなるヘキサンを混ぜたときに、0.1 % オーダーの体積変化しか現れないことが、なぜ“正常”なのでしょう。 ぼくたちは“異常”の追求に対して余りに急であり、その結果“正常”を見失っているのではないでしょうか。 そしてそれが逆に“異常”を明らかにすることができない結果につながっているのではないでしょうか。

ぼくは、“非日常性”をただちに分子論的な“異常”に直結させるありようを捨て、「分子論的に見て、何が正常なのか」を明らかにすることが、流体の物理と化学にとって、今日もっとも求められていることであると考えています。 実際、予断を捨てて、謙虚に流体現象を見るならば、ぼくたちが“正常”と思っていることの多くが、決して当たり前のことではないことを思い知らされます。 たとえば、温度を上げると液体の粘度が小さくなることを、ぼくたちは“正常”と考えます。 けれども気体分子運動論の立場からすれば、きわめて“異常”です。 「何が正常か?」そして「なぜ正常なのか?」このことが、流体中の化学反応に対する圧力効果という窓を通して、ぼくが見つめてきたことであり、また研究のモチーフでもあります。


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