いちょう No. 97-20 98.1.8.

どこか南方系の風情を感じさせる地鉱の冨田さんには、以前、興味深いインドネシア便りをいただきました(「トロピカルライフスタイルに戸惑った熊襲人」いちょうNo.95-12。95年12月7日発行 )。今回は、インドネシアでの“仕事”について、一文が届いています。


バンドンでの仕事

冨田克敏(地鉱分会)

昨年も、ジャワ島で最もすごし易いバンドンに、9月から10月にかけて出かけました。今度は京都の酷暑を2年振りに味わってからのことで、些か損をしたような気分でしたが、欲を言ってはいけないと自戒してのことです。いろいろ心配していただいた向きもあったようですが、昨年話題になった大山火事は、幸いにして赤道より北のボルネオ、スマトラ島北部が中心で、南緯7度のバンドンでは、山火事による煙の被害はありませんでした。日中は28℃、夜は15℃前後、天気は快晴。食べ物もおいしくて、快適な毎日でした。特に果物! マンガ(マンゴスチン。マンゴーの一種)は、この時(乾季)が旬で大変おいしかったです。またパパイヤは、年中おいしく食べられます。なお他の多くの果物(ドリアン、ジャックフルーツなど)は雨季(ちょうど今ごろ)が旬です。

どんな仕事?どんな博物館?

バンドンでの仕事は、バンドン地質博物館改善のための国際協力事業です。具体的には博物館職員への研究・技術指導、展示と保管の改善方法についてのアドバイスが主なものです。その外に、インドネシア政府が博物館の展示・保管設備、研究設備の改善のために日本政府の無償資金協力を要請していますが、これを実現させるための協力があります。

バンドン地質博物館は、「鉱山エネルギー省地質研究開発センター」の付属施設で、オランダ植民地時代の1924年に作られました。博物館の建物はアールデコ様式の白い2階建でなかなか美しく、展示室が約1200平方メートルあって、外見は立派なものです。

第2次世界大戦の時、日本がインドネシアを占領していましたが、そのとき、博物館も接収され、日本の現地地質調査所となっていました。捕虜のオランダ人地質学研究者と、インドネシア人技術者を日本軍の資源調査に使役したそうです。当時の日本軍の技術将校は地質の研究者。その中には京大の先輩も含まれ、戦後東大や京大などの教員になったりした方々。私などの教師や先輩にあたる方々です。私にとってショックなことは、今も尚、日本刀を吊った日本人技術将校を真ん中にしてオランダ人研究者、インドネシア職員が並んだ記念写真を展示室に掲げてあることです。当時、博物館内の展示室や保管室もかなり荒れたようです。

その後のインドネシアの独立戦争の時も荒れたようです。独立後、元オランダ人職員がボランティアで古生物関係の展示を一部復旧したくらいで、殆ど放置されていました。

なぜこんな協力事業を始めたのか?いろいろ感じていること

荒れ果てた地質博物館を何とか日本の協力で改善して、インドネシアの子供達に楽しく勉強してもらう場をつくり、インドネシアのみならず、世界の人々に、インドネシアの地質についての知識を普及したい、と考えたのがこの国際協力事業です。

これまで3回現地に出向きましが、国際協力の難しさを幾つか感じました。その一つは、相手のインドネシア職員との間で、以心伝心の状態からほど遠いもどかしさです。私がインドネシア語を駆使できないことも一因ではありますが、どこか押し付けがましく受けとられているといった思いに駆られます。この距離感はいったい何処からくるのであろうかと悩んでいます。それは現地の人々の心の奥底で、過去に占領した日本人と私達がダブっていることではないだろうかとも思っています。

インドネシア人の多くは、明るく屈託がなく、とっても人の良い親切な人達です。この魅力が私を何度も出かけさせる理由のようです。ところが、現地にいる多くの日本人は、異口同音に「インドネシアの人の多くは、仕事の進展に障害が生まれたときに、とにかく工夫がない」と言って嘆きます。私もそんなことを感じています。ただし、これでダメ印を押してもどうにもならないので、そのルーツを探ることから始めねば、と思っています。そのためにはインドネシアの歴史をかなり深く学び、検証しながら実践することから導き出さねばなりませんが、短期間の滞在ではどうにもならないというジレンマが残ります。

ともかく、これからも少しでも日本が占領時代に植え付けた暗いイメージを和らげながら、対等平等の国際協力を育み、世界に誇るバンドン地質博物館にするために努力しなければ、と考えています。


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