いちょう No. 97-26 98.3.12.

現在、中央教育審議会・教育課程審議会で、教育の見直し作業が進められており、昨年、中間答申が発表されました。今回の改訂について、理学部出身の菅野さん(1954年物理卒業。大阪市立大学退官後、私学の講師など勤めるかたわら、物理教育学会などでいろいろ発言されている由)のコメントを2回に分けて紹介します。


「教育改革」に対するコメント その1

菅野 禮司

現在進行中、および審議中の「教育改革」の基本方針は、画一的「一線並び」の教育を是正し、個性を生かすためと称して「多様化」と「自由化」政策、いわゆる「規制緩和」の方向である。しかし、学校現場での基礎ができていないと掛け声倒れになる。

●制度改定よりも教育内容の充実を

☆まずは「落ちこぼれ」に手を差し伸べよう

日本の教育制度および教科内容ともに文部省による規制が強いために自由度が少なく、そのために教師の自主性が損なわれ、生徒の個性を伸ばし難かったことはこれまで指摘されてきた。それゆえ、多様化、自由化の方向は基本的には賛成であるが、今度の制度改革は多くの問題点を内包していて、果たして「個性を生かす」ことができるかどうかはなはだ疑問である。

たとえば、「物理と数学の分野で才能ある生徒の飛び級制度」はその典型であって、かなり物議を呼んでいる。日本の教育風土(一線横並び、隣人、友人の状況が気になるなど)では、かえって将来弊害となるという指摘、少数エリートのための「制度いじり」だとの批判がでた。また、欧米での例からしても、飛び級入学した生徒のアフターケアを十分にしなければ危険であるといったことが指摘されている。私も同様の危ぐを感じている。

進学路線の多様化や教科選択の自由度の増加にしても、基礎学力を軽視してこのような制度を設けたところで「知識のつまみ食い」となって教育は上滑りし、むしろ弊害の方が多いであろう。いわゆる「落ちこぼれ」を放置して置いて、このようなところに力を注ぐのは本末転倒の感がある。

また、大学入試で選択科目の自由度を多くしたために、物理や化学を履修してない学生が理工学部に入学し、教育が満足に行えない大学が増えていることは、そのことを示している。

☆長期に通用する内容のしっかりした教育方針と制度を

いかなる制度でも、それが適用される「場」の条件と実際の運用次第で良くもなり悪くもなる。まして教育の場合、教育を受ける者の個性と才能は一人一人皆異なり千差万別であるから、「教育には王道なし」である。したがって、教育制度自体も大事ではあるが、それよりも重要なことは、教育内容と方法と合わせた実際の運用の改善と充実である。

戦後50数年の間に、ほぼ10年ごとに文部省は教育審議会に答申を求めてきたが、一貫した教育方針がないままほぼルーチン化されている感がある。その都度目先の情勢に左右されてカリキュラムを変更してきたので、現場に大変な混乱を持ち込んだ。現行のカリキュラムが現場の教育でどのように受けとめられ運用されているか、そしてその長所と短所を全国的に調査した上で問題点を整理した結果、改訂の必要性が認められるならば納得できる。しかし、そうではなく新カリキュラムの実施と同時に次期の改訂作業が始められているのでは、何のための改訂かその目的が分からない。その改訂のために、現場の教育関係者はどれほどの苦労とエネルギーを費やしたかを、文部省は把握し理解しているのだろうか。その混乱の典型は高校・大学の入試制度である。

次期改訂に関しては、納得できる唯一の理由は完全週5日制実施に合わせた時間数減少のためである。それにしても、現行カリキュラムの問題点を十分検討する時間的余裕もないまま、作業がどんどん進められているらしい。

社会変化や科学・技術の革新がいかに速いからといって、義務教育や準義務教育的高校の基礎科目をそう頻繁に変えるべきではない。戦後間もない混乱期ならいざ知らず、既に60年近くを経た今日10年毎にしかもかなり激しく改訂するのは、文部省が自らの無定見を示していることになる。教育は国家百年の計を建てる基礎であることは現在でも変わらないはずである。長期に通用する内容のしっかりした教育方針と制度を築き、今後改訂するにしても部分的改訂ですむものを目指して欲しい。


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