いちょう No. 97-28 98.3.26.

この3月、長年にわたって、職員組合に貢献してこられた方々を、多数送り出すことになりました。今回のいちょうでは、地鉱の冨田さん 、生物物理の山岸さんに、メッセージを寄せていただいています。


停年退官にあたって

生物物理 山岸 秀夫

着眼大局、着手小局

私の机の上に、DNA二重らせんの振子が回転し、“着眼大局、着手小局”の銘のある置き時計があります。この銘の通り、着々と駒をすすめることができれば、必ずやゴールに到達するに違いありません。しかしそううまくいかないのが現実です。

学生のころ

私が京大に入学した1953年は朝鮮戦争が終結し、米軍による特需景気がなくなり、日本経済が不況のどん底になっていました。学生生活も苦しく、戦争に反対し、大学を平和な学問の場にしたいとの思いで全国から京大に集った学生の“学園復興会議”に対する大学当局の不当学生処分に抗議して、1回生だけの宇治分校で始まった学生ストライキがまたたく間に全学に拡がりました。学生デモ隊が警官隊と橋の上で衝突して、欄干がこわれて学生の集団が河原につきおとされて負傷した荒神橋事件もこのときでした。実際、当時宇治分校学生自治会の掲げた要求には、しばしば語学授業を中断させる隣の自衛隊の演習爆発音の自粛や大学校内の草むらのマムシ蛇退治があるといったひどい勉学条件でした。米は配給制なので米穀通帳を下宿に預けたり、その外食券を持たないと生協でも米飯は食べられず、下宿はフスマ1枚へだてて隣り合い、学生寮でも4畳半に2名収容といった状態でした。したがって、互いに助け合うのは当然のことでしたし、何かが変わるという可能性に満ちた楽しい時代でした。この年に法学部の瀧川幸辰先生が総長に就任されましたが、それ以来今日まで文科系の総長は選出されていません。

大学院生、そして教員として

私の大学院時代には60年安保の大運動がありました。当時学生同学会、大学院生協議会(院協)、生協労組、職員組合(職組)などが共闘団体を結成して運動をもりあげていました。共闘会議は職組本部で開かれ、院協の役員として参加しましたので、浅井健次郎先生(物理学教室)が職組の書記長として頑張ってられたのを想い出します。

大学院終了後国外に留学していて、留学先の米国で大学紛争を知り、帰国して職員組合に加入したころに70年安保の運動がありましたが、かっての職組を軸とした共闘体制にきしみが生じていました。この頃浅井先生は学生部長の要職についてられました。それから十数年後、亀井節夫先生(地質鉱物学教室)が職組委員長をされた年に中央執行委員をつとめました。組合員の生活を守るためになさねばならぬことが山積みしていました。それから90年代に入り、大学院重点化をテコにした上からの大学改革がおしすすめられ、現在にいたっています。

大局を誤らず、小局を切り開いていくべきとき

京大への研究費の配分も増え、学生生活もワンルームマンションの豊かな個人生活ができるようになりました。その分、研究者は互いに分断され、研究成果をめざす過酷な競争にかりたてられ、学生は情報量の過剰な教科書の前に、批判する勇気をなくし、共に学ぶよろこびを失っています。最近新聞紙上で毎日のように報じられている中学生の暴力事件は、かって大学紛争時代に大学生が味わった未来への閉塞状態が若年化しているのではないでしょうか

また大学院重点化とひきかえに行われた一般教養科目の軽視もゆゆしきことです。地球上の生物が共に生きる喜びを享受できる地球環境を実現するには、物理学、化学、生物学の教養を将来政治家や裁判官や企業経営者になる人、新しい生命をうみ出す母親に是非備えて頂きたく思います。 今こそこれから進むべき道の大局を誤らず、その方向に向かって現在の軌道を少しずつ修正する小局を切り開いていくべきときでしょう。21世紀になって“この道はいつか来た第2次世界大戦への道”が再来することのないよう職組に結集する若い方々に期待したいと思います。

1998年3月21日春分の日に


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