昔から「教養部問題」として語られてきた、一般教育に関わる問題については、往々にして、総合人間学部が矢面に立たされます。冨田さん(人間支部支部長)は、総合人間学部に対する批判を、(A)学部化に当たっての「一般教育科目は一人当たり平均4コマ担当」という約束が反古にされている、 (B)非常勤依存率が高く無責任、(C)科目内容が手抜き、という形で整理し、①91年の大学設置基準の大綱化、②92年の「高度一般教育」を謳った京大の藤澤委員会報告の文脈で、現状を理解すべきことを説いておられます。冨田さんの論説の後半です。
この経過をみれば、今日の問題の本質が単に「4コマ云々」の約束ではないことをおわかりいただけると思います。問題は、私の関係している分野(物理学)に即して言えば、専門科目の一部であると位置づけられた専門基礎的科目の調整が、我々と理系学部の間で未解決であり、依然として我々に負担が課せられ「B群科目」のかなりの部分を占めているということです。ただ単に単位数を揃えることが目的で再履修・再々履修のために何重にも登録し、年度末に嘆願に現れるだけの大量の学生のためにどれだけの困難を生じているか、一度想像してみて下さい。
我々としては、例えば必ずしも専門基礎としての物理学は必要としない学部の学生に対して一般教養としての物理学の丁寧な教育を実施すること、これが全学共通科目の実施責任を負い、それなりの教官定員を配置された部局として、もっと力を注ぐべきことと思います。そして他学部と同様に我々の学部でしか開講できない教養科目を全学に提供すること、さらに、例えば物理を必要とする学部の間で「専門基礎としての物理教育は協同で実施しよう」ということになれば、入試の出題委員会のように相応の分担をすることは当然と考えます。その結果として、全学の教官が担当科目の種別に違いはあっても「毎年平均4コマ分担しなければ京都大学が成り立っていかない」というのであれば、皆で覚悟いたしましょう。
その後、総合人間学部が発足し専門教育が開始されるとともに、いわゆる34人の振替定員と臨時学生増募に伴う定員の返還により教官定員が削減(不補充)されていきました。専門科目でいえば、全員が専門科目を担当する形で設置審査を受けていますから、最初の4年間は身動きできず、全ての科目を時間割の中に位置づけて開講しなければならない、これはいくら定員が削減されても非常勤講師でというわけにはいかず、どうしても全学共通科目の方に非常勤の比重が移る、専門科目の方は開けてみたら受講生が数人あるいは0という例もあります。これが最初にあげた現象の(B)として指摘されている部分の実態です。この点については、この3月に最初の卒業生を送り出して設置審の拘束から開放された現在、講座や学科の再編成を含めて現実に即した改善の検討を始めているところですが、既に入学している学生を抱えながらですから、この種の問題はすぐ明日からというわけにはいかない性質のものであることもご理解いただけると思います。(C)については、工学部から主として物理系科目について指摘されているようですので弁解しておきます。物理系では、従来の履修者の動向を分析した結果、科目内容の再編を行い合理化しましたが、先に述べた専門基礎的科目の学部間調整が決着していない現状を踏まえ、従来の科目内容は全ていずれかの新科目で確実に維持しています。さらに、高等学校の教科課程の改編に対処するコースの新設も行っています。
ともかく、数百人規模の一般教育・基礎教育科目の講義を来る年も来る年も4コマ担当しなければならないというのは、正直なところそれだけでも大変な苦痛でした。これだけ担当しているとその内容の改善の努力はなかなか追いつけるものではなく、惰性に流されがちです。しかもその教育活動の対象である学生はといえば、すべて学部に所属していて、入学定員から履修科目構成まで我々は全く管理できない立場にあったわけです。おまけを付ければ、受験勉強の重圧から開放された数千人の幼児還り行動の後始末も主として我々にかかってきます。こうした諸々のことが全て要因となって長期にわたる教養部改革の前史を形成してきました。現在行われている議論は、今日の京都大学の学部教育が抱える諸矛盾を再度、二本松キャンパスの塀の中に封じ込めてしまうのか、高らかに唱われた高度一般教育の理念を全学の力で発展させていくのかが争点になっていると言えます。