京大職組の結成50周年にあたって、平和を考える沖縄の旅の企画が行われました。参加は4名で、75%は理学部! その一人堤さんの、沖縄の旅の報告、ダイジェスト版をお届けします(正式の報告は、別途、本部から刊行予定)。ダイジェスト版とは言え、いささか長いので、2回に分けて掲載します。
中執の森さん、松尾さん、熊谷さんと、案内をお願いした「沖縄平和観光センター」事務局長の真栄田さんの5名で2月11日から3泊4日の日程で参加しました。
京阪出町駅で集合して、京阪門真駅で大阪モノレールに乗り換え、伊丹空港で下車。11時40分発の飛行機に乗り、沖縄の那覇空港に向かいました。 那覇のターミナルに出ると前の便が遅れているために荷物の受け取りの時間がかかり、またレンタカー会社の配車ミスもあり、予定の時間よりかなり遅れて出発しました。もう、すでに沖縄は初夏のような陽気でした。
対馬丸事件(疎開する学童約800人を含む1600人余りが犠牲となった)の記念碑の小桜の塔、戦争中の遭難船舶の犠牲者に捧げられた海鳴りの像など見ながら、嘉手納空港へと向かいました。
砂辺(すなべ)は嘉手納基地の離着陸訓練するコースの真下近くにある村です。公民館の中庭には、基地の中にある同じ内容の立て看板が設置してありました。内容は以下の通り:
《WARNING: HIGH NOISE AREA. MAY CAUSE HEARING LOSE. WEAR PROPER EAR PROTECTION》
この立て看板はかなり前から基地の中に設置されたが、まったく住民には知らせなかったのですが、住民の一人が日本語に訳したら《警告 高度の騒音地域 難聴者になる可能性あり 聴力保護具を着用せよ》このような内容だったので住民が驚いたそうです。この立て看板が本当かどうか確認がしたくなり、全員で軍用機がくるのを待っていました。しばらくすると黒くて大きな軍用機がきました。2~3分後には見ている真上(約30m)にきて、すごい爆音を轟かせて着陸体制にはいりました。軍用機がすぎさった後にはキーンとゆう音がしばらく耳に残りました。この軍用機の名前はC-5Aギャラクシー(戦略輪送機)。これより凄い音(約90ホーン)を出す戦闘機もあります。
TVなどで見るのと実際に聞くのとでは段違いに違うのがよくわかりました。この爆音のために住民の土地を防衛庁が買い占めており、空き家、空地があり、空地には「植裁工事、発注者-那覇防衛施設局」の立て看板がありました。
夜は沖縄市(旧コザ市)の「でいごホテル」で夕食を囲みながら交流会をしました。このホテルは米軍専用だったので部屋、ベット、バスルームが一般の部屋よりも広くなっているが、全員新館(普通の部屋)でした。残念
朝、ホテルを8時30分に出発、車に乗ってウトウトしていると急に視界が広がったと思ったら、すでに米軍読谷(よみたん)空港の滑走路を走っていました。この飛行場は旧日本軍の北飛行場で格納庫の跡もありました。滑走路の部分を除くほとんどが黙認耕作地です。
飛行場の近くにはシムのガマ(洞窟)がある。入口から少し奥に救命洞窟の碑があります。戦争中、この洞窟には1000人の住民が避難をしていました。米軍に囲まれて、全滅状態でしたが住民の中に米国帰りの住民がいて、米軍と一時間以上折衝して全員助かりました。この一方、チビチリガマでは母親が包丁で子供の頚動脈を切り、元看護婦が毒薬を注射し、住民139人のうち82人が集団自決をしました。同じ地域にありながら対照的になってしまいました。
名護では、元京大職員(病院)で今は名護市会議員の大城さんが海上ヘリポート基地阻止闘争小屋の前で出迎えてくれました。団結小屋に案内をしてもらって、事務局長さんと応援の人達を紹介後、ツアー代表者の熊谷さんから激励旗を事務局長さんに渡しました。今までの状況などが話され、闘争資金のため、絵ハガキ、ジュゴンのバッチ、Tシャツの販売に、京大職組の支援を願いたいとのことでした。
小屋の隣には仮設テントがあり、その中には建設阻止のパネル展示があり、大城さんに説明をしてもらいました。海上基地ができる所まで案内をしていただきましたが、そこは海と海岸がとてもきれいな所でした。この海岸にはすぐそばに米軍基地(キャンプシュワーブ)があり、海岸には米軍が張った鉄条網(軍用専用のために特殊な構造でトゲがカミソリ状態になっている)がありました。
2日目、3日目は那覇の「ホテル日光」に泊りでした。この夜は全員で琉球料理店「あんつく」に食べに行きました。料理はゴーヤチャンプル(にがうり)、フーチャンプル、ソーメンチャンプル、ミミガァー(豚の耳のピーナッあえ)、ラフテー(豚三枚肉の角煮)、クウブイリチイ(昆布の炒めもの)、泡盛(古酒)などを食べて飲んで満足した一日でした。ア~おいしかった。