いちょう No. 97-5 97.8.27.

一昔前と比べると、大学でのくらしも、せわしなくなってきました。それでもふと出勤の足を止めて朝顔に見入るような、帰り道で頬をなぜる風に夜空を見上げるような、そういう心の潤いは、失わないでいたいものです。いちょうでは、少年時代から火星に親しんでこられた、数研の南さんに、火星の話を寄せていただきました。紙面の都合で2回に分けて掲載します。


夏火星 その1

数理解析研究所  南 政次

★★★★ パスファインダー ★★★★

この夏、新聞やTVで火星が話題になりました。7月4日にマーズ・パスファインダーが火星のクリュセ平原と称するところに無事着陸して、影像を送信してきたことによるわけです。どういうわけかアメリカにしては、小型のロケットで打ち上げ、おもちゃのようなローヴァーを走らせたり、吹き流しをつける旗竿も鯉幟のそれにもおよばないのですが、アメリカのタックスペイヤー(納税者)は溜飲を下げたのでしょうか、不満を持ったのでしょうか。それでも二十年前のヴァイキングのような大仕掛けでないにしても、影像は速く良く解析され、面白いデータも送られてきているようです。生命体の存在は今後の予算獲得や“友好国”負担の宣伝用で、確率的にほとんどゼロですが、すでに気象の定点観測をしていますし、地質学的にもいろいろ目的が作られているようです。地球のどこか僻地の砂地の数十メートル四方の範囲でどこかのETが小さいローヴァーをちょこまか動かし、数メートルの旗竿を立てて探索しながら、地球がどうのこうのと論じているなどと想像すると滑稽ですが、火星のばあいは地球より簡単なモデルですから単純な装置で結構な結果をもたらす場合もあるでしょう。

★★★★ 怪しい星 ★★★★

昔から火星は不思議な星でした。中国での古称は(ワープロの第二水準にもありませんから、ここでは再現できませんが)「けいこく」と言って、「けい」は蛍の旧体字の虫を火に換えた字、で、怪しげな光と言うような意味を持ち、「こく」は「惑」です(ですから「けいわく」とも訓されます)から文字通り不気味な輝きを放つ星であったわけです。金星や木星、土星と違って、妖しい赤味の帯びた色を出しています。夏の南の星座さそり座の一等星アンタレスは赤色巨星として知られていますが、最大光輝の火星の紅っぽい妖艶さはこれよりもっと魅惑的でしょう。ちなみに火星はギリシャでは火星はアーレスといって、アンタレスはアーレスに対抗するものと言う意味だそうですから、太古の暗い夜空で両者が並ぶとちょっと見ものだったのでしょう。さそり座が比較されるのは、火星がその輝きで注目を集めるのは、夏の南の空に現れるときだからです。そんなわけで、中国では「けい惑」は南、夏、火のしるしになっていました。

日本でも、夏日星(なつひぼし)とか夏火星とか称えられたようです。古くは聖徳太子の『傳記』(1318年)などに夏日星や夏火星が出てくるようで、ある現象を九歳の太子が「けい惑」と絡めて説いたと言うお話なのですが、中国の古い書物に、「けい惑」は治めると言う意味を持ち、外は軍備に備え、内は政治を整える、聡明な天子は必ず「けい惑」の位置を測定する、などというのがあって、伝記作者は聖徳太子が不運な傑物であったことを仄めかしているのかも知れません。ここで火星の位置が出るのは、火星の天球での動きが迅速で、かつ複雑であったことによるのです。

★★★★ 星空での奇妙な歩み ★★★★

今年(1997年)は3月に火星が地球に接近しましたが(まったく接近しない年もあります)、夏火星ではありませんでした。火星が夏の南の空に火のように輝くのは、十五地球年(ないし十七年)毎でして、この前は1986年と1988年の夏でした(ここで言う夏はすべて北半球の視点に立っています)。次は2003年の夏で、このときは世紀的な大接近となりますから、大いに話題になるでしょう。どうしてこのようなことになるかというのは要するに火星が不思議な動きをし、奇妙な輝きかたをすることと関係するのですが、種を明かせば、地球の軌道は円形に近いのに対し、火星はかなりいびつな楕円軌道を動いているからです。火星の近日点近くで、両者が出会えば大接近となるのですが、遠日点近くでの会合だと両者の距離が縮まらなくて、平凡な火星で終わるのです。両者は約二年と少々毎に軌道上で隣り合うのですが、その端数のために、大接近は十五年ないし十七年毎にしか起こらないわけです。北半球の夏に大接近が起こるのは、軌道上地球の北半球が夏を迎えるのが、太陽から見て火星の近日点の方向だからです。

お隣の火星の離心率が大きかったと言うことは奇跡に近いこととも言え、お陰でケプラーが、ティコ・ブラーエの観測に基づいて、火星の楕円軌道を発見できたわけです。その三つの法則からニュートンは運動の第二法則を見いだしたようなものですから、もし、火星が平凡な軌道を巡るお隣さんであったならば、夏日星にもならず、あの昔の人を幻惑したような複雑な運動も起こらなかったでしょうし、力学の発展は違った道をたどったことでしょう。


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