いちょう No. 97-33 98.6.11.

吉村支部長は2月から4月まで、米国視察に出向いておられました。いちょうでは、その米国でのようすを、寄稿いただくことができました。今回は米国印象記の前半、イリノイでのお話です。


アメリカ滞在記  その1

化学教室 吉村一良

2月21日から4月29日まで約2ヶ月間、文部省の“海外研究開発動向調査等に係る派遣”(在外研究員扱い)ということで、「遷移金属酸化物の磁気的性質に関する研究」を行う目的で、米国、イリノイ大学のアーバナ・シャンペーン校(University of Illinois at Urbana-Champaign)と、同じく米国、マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology)に行って来ました。その間、職組理学部支部の仕事は太田さん、大槻さん、堤さんはじめ支部のみなさんにお任せにしてしまいご迷惑をおかけしました。この場をお借りして、お詫びとお礼を申し上げたいと思います。吉村洋介いちょう編集長より何か書くようにとのことですので、アメリカの大学の様子などについて、滞在記的なものを書かせていただきます。

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まず最初の約1ヶ月間はイリノイ大学のCharles P. Slichter(スリクター)教授の研究室に滞在しました。Slichterという名前については、先生ご自身に伺うと元々スイス系の方で、スリヒターが本当だけれど、今はアメリカ流にスリクターと名乗っているそうで、こんなところにも小さなことにとらわれないアメリカ人らしさが出ていると思います。実際には、アメリカ人はすぐファーストネームで呼び合うので(チャーリー、かずと呼び合っていました)スリクター教授と呼ぶことは自分が講演会で彼に謝辞を述べたとき以外ほとんどありませんでしたが...

スリクター教授は、日本でもその名著「核磁気共鳴の基礎」で大変有名な物理学者ですが、ハーバード大学の出身でそのころはかの高名なJ.H.Van Vleck(バンブレック)教授(故人)が指導教官だったそうです。同級生でバンブレック教授の指導を受けたのがやはり有名なP.W.Anderson(アンダーソン)教授(プリンストン大)の2人だけだったそうです。1973年にアンダーソン教授とバンブレック教授はイギリスのキャベンディッシュのモット教授と3人でノーベル物理学賞を受賞されたことでも有名です。バンブレック教授は若きアンダーソンが自分の研究室に来てすぐに、こいつはきっとノーベル賞を取ると確信したそうですが、まさか自分といっしょに取ることになるとは思わなかったでしょうね。アンダーソンの卒業後二人は全く独立に研究していたのですから。

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スリクター教授は2年前、化学教室の寺尾先生と私とが京大にご招待致しました。そのときにお会いになり、ご講演を聞かれた方も多いのではないかと思いますが、こんな人もいるのだなあと感心してしまうほど、気さくで親切で思いやりのある良い人です。京大の講演会の後は、サイン会と写真撮影会になってしまいましたが、先生は全くいやな顔一つなさらず快くお引き受け下さいました。そんな先生のお人柄を反映してか、研究室もみんな親切な人ばかりでアットホームな感じのすてきな研究室でした。特に、エストニアから来ているライボ(Raivo Stern)君(ポスドク)と旧東ドイツから来ているユルゲン(Jurgen Haase)氏(客員教授)はほんとに良い人たちでした。

旧共産圏の人は良い人が多いのじゃないかという印象を強く持ちました。2人とも(ロシアではなく)ソ連を大変憎んでいたのが印象的でした。ソ連に支配されていた人たちは本当に大変だったのでしょうね。彼らはよそから来た私に対して本当に親切で、週末はいっしょにビールを飲みに行ったり、ハイキングに行ったり、家に招待してもらったりしていました。

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アーバナ・シャンペーンはアーバナという町とシャンペーンと言う町が合わさって成り立っていて、イリノイ大学でもっているような小さな田舎町です。シャンペーン空港はイリノイ大学が運営していると言うから驚きです。ですから町全体がイリノイ大のキャンパスと言った感じで、のんびりとした雰囲気のすてきな所です。この大学は物性研究のメッカと言え、理論のD.Pines(パインズ)教授や実験のGinsburg(ギンズバーグ)教授など有名な教授も多い。トランジスターの発明と超伝導のBCS理論で2回ノーベル物理学賞を取られた故J.Bardeen(バーディーン)教授もここの教授でした。

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バンブレック教授はお子さんがなく、スリクター教授は自分の子供のようにかわいがってもらったということで、スリクター教授が結婚されたときにバンブレック教授からのプレゼントだったという安藤広重の本物の絵が、スリクター教授のお宅に何枚もさりげなく飾られていたのが非常に印象的でした。この広重は、旧帝国ホテル(現在は明治村に有ります)の設計者としても有名なシカゴ学派の建築家フランク・ロイド・ライトが資金に枯渇したときに、日本通のライトから、ライトを助けるためにバンブレック教授のお父さん(または、おじいさん)が購入したものだそうです。スリクター教授のお宅はシャンペーン側の町外れにありましたが、たいへん立派な建物で、日本人はこんなのを見せられてしまうと、外国のお客さんを自宅にとても招待できませんねえ。スリクター教授は1ヶ月の間に3回も私をお宅に招待して下さり、パーティーを開いて下さいました。奥様も本当に親切ですてきな方で、私がホテルで使うお皿やおなべ包丁などをもってきて下さったり本当に助かりました。奥様のアンさんはスリクター教授(73才)より25才年下で、2度目の奥さんだそうです。スリクター先生が大変お若いのはそのあたりに理由があるのでしょうか。

私にも奥様とのなれそめなど教えて下さったのですが、前の奥様は同じイリノイ大の農学部系の教室で教授をされていて元気だということも教えて下さいました。そのへんも物事にこだわらないアメリカ人的な所でしょうか。前の奥様との間に4人、現在の奥様のアンさんとの間に2人お子さまがいらしゃって、私はちょうど一番目と二番目の息子さんの間の年に当たるせいか、まるで息子のように可愛がっていただきました。やはり、見知らぬ土地に滞在する場合、どんな人と接するかでその土地の印象も変わってしまうと思いますが、スリクター教授夫妻、ライボ君やユルゲン氏が本当に心温かい人たちだったので、私のアーバナ・シャンペーンの印象は本当に最高のものとなりました。


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