いちょう No. 97-15 97.11.20.

かって、教員部会では「理学部評論」という小冊子を発行していました。山口、丸山両元理学部長の寄稿があったり、創刊号に現学士院会員の藤永先生のエッセイが載っていたり、顔ぶれもにぎやかですが、それぞれに滋味溢れるものがあります(総目次は「いちょう」No.95-21(1995年4月11日発行)参照)。ここでは、「理学部評論」No.5(1977年1月20日発行)に掲載された、数学の山口さんのエッセイを紹介します(再掲載にあって、編集部の責任で、小見出しを付けたりしたことをお断りしておきます)。「いちょう」では、今後も過去の支部の出版物について、機会を見て紹介したいと考えています。なお現在、支部では50周年記念事業の一環で、記念誌の作成に取り組んでおり、責任者の大槻副支部長から、次号に経過報告が行われることになっています。


グレンダラフのこと

数学教室 山口 昌哉

グレンダラフ(Glendalough)とはアイルランド語で「2つの湖をもつ谷」という意味である。ダブリンから南へバスで2時間半程、ウイックロウの海岸から奥に入ったところに一かたまりの山地とそれに囲まれた2つの湖が静かに横たわっている。ここで私は「大学」というものの起源を見たと思うので、そのことを書いておきたい。

モナストリーというもの

アイルランドには、5世紀に、ローマからセントパトリックによってカトリックの教義がもたらされた。それからほぼ1世紀後、セントケビンと後に呼ばれた、一人のカトリックの修道僧がこの人里離れた谷に入った。これより先、彼はダブリンの近くのキルナマナックとルガラ谷の修業地で勉強をしていたのだが、より大きな孤独を求めて、この美しく淋しい谷に入ったといわれている。

2つの湖は、高い位置にあるものをアッパーレーク、低い方にあるものをロウワーレークと呼ばれているが、2つの湖のつながりは、少し狭くなった谷で、小さい木が生い茂っている。このアッパーレークのほとりに、セントケビンがその後数年を瞑想に過ごした、小さな岩の穴と岩のベッドが、今も残っている。その後、昔の同門の友人たちに見つけられ、すすめられて、グレンダラフの南、少し隔たったところに隠棲の地を定めた。しかし結局一人で修行したあの谷が忘れられず、再びこのグレンダラフの地に居を定めた。しかし、このたびは、彼の学識と人格の高潔さに引かれた人々がつぎつぎとやって来た。石造りの小さな小屋をセントケビンの住まいの周りに建て、日々彼の教えを受けようとしたわけである。これらの修業者はアイルランド各地からはもちろん、遠くイギリスや大陸からもわたって来た。その数は膨れあがり千名を超したこともある。教会は小さすぎて、何回となく建て替えられ、場所を移された。結局ロウワーレークの南の畔(ほとり)に、いくつかの教会とたくさんの小屋と一つの塔が建てられ、一つの村のような、学校のようなもの、モナストリーというものを形成していった。一人か二人の修道僧の住む小屋は直径10フィート(~ 3メートル)ほどの石造りで、はだかの土間、窓はほとんどなく、小さなドアと机というような質素なもので、彼らはここで学習と生命を維持するための労働に従事した。羊を飼い、独特のウールの織物も考案された。この地はその後600年もアイルランドのカトリック修行の中心となり、このモナストリーの様式は、イギリスとフランス、イタリーの各地でまねられ、それぞれの地のモナストリーのモデルになった。一つの特徴は、高いラウンドタワーと呼ばれる塔で、これはたびたび侵入して、この修業地を焼き滅ぼしたヴァイキングにそなえる見張りの塔でもあり、侵入に際しては、その塔に逃げ込んで何人かが難を避け、彼らの敵が去って行くまで止まって、モナストリーを再建するためのものである。いずれにしても、一つの塔と、いくつかの壊された教会と、小屋の一群、それにおびただしい墓の群れ(おそらくヴァイキングに襲われた殉教者のものも多いであろう)が、この静かな山と湖2つのふところに残っているのは人の心を打つ。

非体制の精神

大学の起源についての色々の説について、私はまったく無知である。しかし私には、このようなモナストリーが一つの起源であったと思いたい。そう考えると、イギリスのオックスフォードとかケンブリッジなどの全寮制のカレッヂの意味とか、ソルボンヌから始まったパリ大学の歴史も考えやすい。セントケビンのモナストリーは、彼の隠棲から始まった。隠棲とは、体制に入らないことである。このことを私は「非体制の精神」と言ってきている。もちろん現在の大学、特に国立大学はまさに体制そのものに組み入れられている。といって、このような非体制の精神を失ってしまって良いものであろうか?大学をめぐる議論が、内からも外からもたくさんある。しかしこのような見解からの発言がない。それはただちに自己撞着におちいるからでもあるけれども、あえて云うならば、このような要素を一かけらも持たないような大学を作ってみたら、それを「大学」と名づけることができるだろうか?しかし現実に働いている力は、外からも内からもまさにその方向に、つまり隠者的性格を完全に排除する方向に向かっていると、私には考えられる。

このような方向を止(と)めて、本来の大学にすることは困難ではある。おそらく議論ではないだろう。組織替えでもないし、キャンペーィンでもない。そんなものではなく、もっと気負わない、静かな、雰囲気に関係したものである。

つまり全く平凡なことながら、「いい講義」、「いい研究」がひっそりと、いくつもいくつも存在しつづけることしかないのではないか。


[モナストリーは、修道院と通常訳されますが、山口さんはそれをもっと語源的な意味で用いておられるので、そのままカタカナ表記にしました]


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