2020.10. 吉村洋介

ATR法による赤外吸収スペクトル ~ ジメドンの場合

学生実験でジメドン(5,5-ジメチル-1,3-シクロヘキサンジオン)のIRスペクトルをとるのですが、 カルボニルに相当する吸収が判然としません。 これは主にATR法によるものです。

図1 ATR法(赤)と透過法(黒)によるジメドンのIRスペクトル。 Cary 630 (Agilent 製)。 ATR 法では1610 cm-1 付近のピークが判然としなくなり、 1000 cm-1 付近のバックグラウンドの吸収が大きくなっている。 透過法で2350 cm-1 付近に見えているくぼみは、 バックグラウンド測定での二酸化炭素の影響。

図1に学生実験で使用している Cary630 に、透過法ユニットを装着し、 透過法(KBr錠剤法)で測定したIRスペクトルと、ATR法によるIRスペクトルを示します (比較しやすいように吸光度表示にしています。見た目に透過率表示を上下ひっくり返したようになっています)。 ジメドンは結晶中ではエノール型として存在します。 エノール型の IR で注目してほしいのは、 2600 cm-1付近の幅広いOHの伸縮と1610 cm-1 付近のカルボニルの吸収(共役しているので低波数にシフト)です。 ところがOHの吸収はいいのですが、ATR 法によるスペクトルではカルボニルの吸収がほとんど見えていません。


図2 ATR法では全反射条件の下、試料で吸収される光量を反射光でモニターする

こうしたことの起きる原因はATR法固有の事情にあります。 ATR法はその名の示す通り(ATR = Attenuated Total Reflection。減衰全反射)全反射条件で測定するのが前提なのですが、 測定試料によってはこの前提が破綻してしまうのです。 ATR法では反射光の強度変化を見ているので、屈折率が大きくなって表面での反射率が小さくなれば、 それは吸収が大きくなったと判断され、逆に小さくなって表面での反射率が大きくなれば、吸収が小さくなったと判断されます。 一般に、ある波長で吸収が起きると、屈折率はその前後で変動します (たとえば可視光のガラスの屈折率が、 波長の短い青い光の方が大きいことはご存じかと思います。 400 nm より短波長側の紫外部でガラスは光を吸収するのですが、 波長が短くなり紫外部の吸収をよぎると、 今度は波長を短くすると屈折率が小さくなったり(異常分散と呼ばれる現象)、 屈折率に大きな変動が現れます)。 ですから吸収を測っているつもりが、屈折率の変化を測っていることになることがあるのです (このあたりの解析に使われるのが Kramers-Kronig の関係)。

図3 プリズムにゲルマニウムを用いたATR法の吸収スペクトル(紫)。 屈折率の大きいゲルマニウムのプリズムを用いると、 カルボニルの吸収が明瞭になり、1000 cm-1 付近のバックグラウンドの吸収が抑えられる。

学生実験で使用しているのはダイヤモンド薄膜(IR域での屈折率2.4)を用いたATR装置ですが、 Agilentの好意で上位機種であるCary670でゲルマニウム(屈折率4.0)を使用したATR装置でスペクトルを取っていただくことができました。 図3に示すように屈折率の大きいゲルマニウムを使用することで、カルボニルの吸収がはっきり見えるようになり、 ダイヤモンドの場合に見えていた低波数側の見かけ上の吸収のバックグラウンドが大きく減少したことが分かるでしょう。

なおゲルマニウムを用いた測定で、カルボニルの吸収が低波数側にシフトしていることが分かると思います(1618 cm-1 → 1598 cm-1)。 これはそもそものジメドンの波長による屈折率の変動(分散関係)を反映しているようです。 ATR法は簡便にIRスペクトルが測れて便利なのですが、その背後にはこうした問題が隠れている (たとえば異なる装置同士の結果の精密な比較は難しい)ことは注意しておいてもらってよいでしょう。

ここでは分かりやすいように、ゲルマニウムのプリズムを用いたATR法の結果を紹介したのですが、 学生実験で使用している Cary 630 で ATR 法に関わる事情を検討してみることも可能です。 普段は「グリグリ、カチッ」で強く押し付けてIRを測ってもらっていますが、押し付ける力を弱くしてみるのです。 図 4 には押し付ける力を弱くしてジメドンをセットして測った場合のIRスペクトルを示しました。 吸光度を10倍に拡大してありますから、透過率が数%変化するぐらいの見にくいIRスペクトルですが、 密着度を下げることで表面での反射率を上げることによって、 カルボニルの吸収が何とか現れていることが分かってもらえると思います。 同様のことは、 パラフィン(ヌジョールなど)などで試料を希釈しても行えます。

図 4 押し付け強さを変えたATR法によるIRスペクトル(Cary630)。 押しつけ強さを弱めると、1610 cm-1 付近のピークが現れてきて、 1000 cm-1 付近のバックグラウンドの吸収が押さえられてくる。


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