現在の当化学教室の学生実験では、一番最初の段階で「測容器の誤差」という課題で 10 mL のホールピペットの精度を調べる実験を行っています。 元来この種の実験は測容器に目盛り付けする実習として行われてきたものです。 けれども市販のピペットの信頼性が向上したことから、現在ではピペットによる水の採取の精度の確認、市販のピペットの精度の検証、そしてそれを通じてピペット、天秤の操作に慣れる、という観点から実施しています。 また 2000年度からはホールピペットの精度の管理にも資するよう、実験管理室の阿部さんを煩わしてピペットに通し番号を振り、実験の結果、採取容量が規格から外れたピペットを以降使用しないようにする措置を講じています。
実験室で使う 10 mL のホールピペットの精度について、日本工業規格(JIS)では ±0.02 mL と定められています(JIS R3505「ガラス製体積計」。ホールピペットについて対応する国際規格はISO 648)。 これは工場出荷の段階での目盛り付けや流出速度等の設定について保証するものであって、ホールピペットで出せる精度の限界を示すものではありません。 この「ホールピペットの精度の限界」については、意外に教科書の類にも書いていません。
ホールピペットでは、水を出した後ピペット内部は濡れています。 この濡れている量(残着量)には、どれほどの再現性があるのでしょう? またホールピペットから垂れる水1滴の体積はおよそ 0.05 mL です。 いったいどれぐらい安定にホールピペットで水を採取出来るでしょう? ここではぼくが担当した、90、94、95、97、99~05年度、10年分の学生諸君の実験結果などを紹介し、ピペットでどこまで精度が出るのか見ておこうと思います。
水の密度の文献値を用い、測り取った水の重さを量ることで採取した水の体積を求めます。 実験では容量が 10 mL のホールピペットで水を秤量ビン*に測り取り秤量するという操作を、5回以上やってもらいます。
秤量に当たっては、空の秤量ビンの重さを測り、次にそこに水を入れて重さを測り、差を求めるという操作を逐一やってもらうことにしています。 逐一前後の値を記録するというのは、直示天秤を使っていた時代、その後の広い天秤室で2人交代で電子天秤を使って実施していた時代には必要な指示でした。 それが現在の当化学教室の学生実験室では、比較的狭いスペースで1台の電子天秤の前で1人が操作する環境になっています。 ですから能率だけをいえば、空の秤量ビンを置いて風袋(TARE、タラ)操作をしてから、水を入れて重さを測ればそれでいいわけです。 けれども「前後の差から重さを出す」ということ、そして「秤量ビンは何 g ぐらいか」「水滴がついたらどれぐらい重さが変化するか」という、これもまた何でもないようですがたぶん大事な感覚を身に付けてもらうために、敢えてこの設定は残しています。
実験の実施上、大きな問題は温度の制御です。 室温付近で水の膨張率は 1/5000 K-1 程度ですから、1 K の水温の変動は測り取る体積に 0.002 mL (= 2 µL)程度の影響を与えることになります。 当初は各自の使用する水温をガラス温度計で測ってもらったりしたのですが、人が盛んに入れ替わる状況で実験するので時間的な余裕がないこと、そして実際に測定される体積のばらつきが温度の変動に由来すると思われるものより大きいことから、実験室の寒暖計の示す気温で代用してもらうことにしています。 将来、安価で迅速簡便な温度計が利用できるようになれば改善したいところです。
なお実験では化学天秤に慣れてもらう意味で一応 0.1 mg まで測ってもらうのですが、水温の設定上の問題、水のピペットによる水の採取の再現性などから、実質的には 1 mg のオーダーまでしか意味はありません。 ですから用いる秤量ビンを乾燥させる必要はなく、1回測ったら付いている水滴を軽くキムワイプでぬぐう程度で次の測定に移ってもらうことにしています。 ただし総量約 10 g の 1 mg、1万分の1のオーダーまで質量を測るわけですから、空気による浮力に対する補正は必須です(空気の密度はおよそ 1.2 mg/mL で、水の約千分の1ですから、千分の1以下の測定には効いてきます)。
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ぼくは「秤量」を「ヒョウリョウ」と読んで何の疑いも持っていませんでした。
ところが最近学生さんに「『秤量』は『ショウリョウ』と読むべきだ」と指摘され、漢和辞典などで調べてみると「ショウリョウ」と読むのが正式。
「秤」は「称」と同じに使われる文字なのですね。
辞書の類を見ると「ヒョウリョウ」は“慣用読み”という扱い(“誤読”としているものもあります)です。
「天秤」で「秤」を「ビン」と読むのも、つくりの平の唐音に引きづられた慣用読みのようです。
なお研究室の古い理化学辞典の増補改訂版(1939年)には「ショウリョウ」という読みで掲載されています(第3版増補版(1981年)では「ヒョウリョウ」)。
科学者自身に漢学の素養が十分にあった時代には「ショウリョウ」と読まれていたのが、そうした素養が失われていく中で「ヒョウリョウ」に席を譲ったようです。
同様に古い理化学辞典では「秤動 libration」も「ショウドウ」です。
ただしこう読むと「章動 nutation」と同じ読みになってしまいますが・・・。
図1. 10 mL のホールピペットで採取した水の体積の分布。 通し番号による管理を始めた 2000年度以前のデータも含めた、483件についての結果。 実際に採取した体積 v mL の 10 mL からの偏差 Δv = v - 10 について整理してある。 偏差の平均は -1 µL。 ピペットで採取する水の体積の平均は 9.999 mL。 大きくはずれたデータを除いた標準偏差は 0.014 mL。 |
図1に 10 mL のホールピペットでの水の採取容量を調べた、ぼくの手元にある延べ 483件の結果について、容量の分布を示します。 平均 9.999 mL と、みごとに 10 mL です。 JIS 規格の ±0.02 mL (= ±20 µL)から外れた結果は全部で 86件、18% でした。 大きく外れたデータ(21件)を除いた標準偏差 σ は 0.014 mL。 JIS 規格の ±0.02 mL からいうと σ が 0.010 mL ぐらいであって欲しい(5% の不良率)ところですから、かなり大きくなっています。 ただしこの結果には、学生のホールピペットの操作上の問題が含まれており、市販のピペットの不良率が2割近いということではないことに注意が必要です。
通し番号による管理以前(~2000年度) | 通し番号による管理以降(2001年~2005年度) |
図2. 通し番号による管理を始めた 2000年度以前と以降の 10 mL のホールピペットで採取した水の体積の分布。 実際に採取した体積 v mL の 10 mL からの偏差 Δv = v - 10 について整理してある。 |
図2には通し番号による管理を始める前後で、どの程度容量の分布に違いが生じたかを示します。 通し番号による管理の始まる 2000年度までは、学生実験の結果不良品であるとされても、当該ピペットを特定することが困難で、不良品を次年度に持ち越してしまうことになっていました。 もっとも 2000年度から通し番号による管理を始めたといっても、実際に規格はずれであることが明らかになり処分したピペットは、ぼくの把握しているところでは 2005年度までに4本(全体の 7%程度。この中には 9.88 mL と、とんでもないピペットもありました)だけです。 ですから分布のようすが大きく変わっているようには見えませんが、規格を大きく外れるものは減っています。 規格外の(10 ±0.02 mL に収まらない)結果がでるケースを見ると、2000年度以前は 225件中 47 件、2割程度あったのが、2001年度以降は258件中 29件、1割程度と目に見えて改善しています。 通し番号による管理は有効に機能していると考えられます。
なお学生実験の結果不良とされたピペットの大半は、当方で再チェックすると問題なくJIS規格に収まることがほとんどです。 2000年度は51本中不良とされたピペットは7本で、当方のチェックでも規格外と判断されたのは2本。 2005年度は56本中不良とされたピペットは5本でしたが、当方のチェックではすべて規格内に収まっていました。 こうした学生の未熟な腕前を考えた時、ピペットの管理を徹底することにどれほど意味があるのかを疑問に思う時もないではありません。 けれども「ピペットが精度を出してくれない」といって真剣に悩む学生もいることを思うと手抜きはできません。
ここではピペットで毎回採取する水の量の変動、再現性を見てみます。 先にも述べたように、この実験では各自が1本のピペットで5回以上採取した水の量を測ります。 図3に示すのは、各人が毎回測り取った水の体積 v の、その平均(標本平均) v(av) からの偏差の分布をまとめたものです。
図3. ピペットで水を採取する際の、採取容量の変動。 5回以上の測定について、その標本平均からの偏差。 この分布の標準偏差 0.011 mL(= 11 µL)。 |
結果はなぜかおおむね正規分布に従い、標準偏差は 0.011 mL。 分散の値から標本標準偏差を求めると 0.012 mL という結果です。 ここで得られた測定のばらつきは、学生諸君がピペットで測り取る際の精度を示しているわけですが、これが「ピペットの精度の限界」を示しているわけではありません。 このことは図4に示す、各自の水の採取容量の標準偏差の分布にも現れています。
図4. 各人がピペットで水を採取する際の採取容量の標準偏差の分布。 |
ピペットの取扱いに対する各人の技量がまったく同じならば、N 回の測定から得られる標本分散は自由度 N - 1 のカイ2乗分布に従うことが期待されます。 5回程度の測定なら標本標準偏差σの標準偏差は 0.34σ 程度になるはずです。 しかし図4の標準偏差の分布はより幅広い分布を示していて 0.5σ程度あり、またσの小さいところの分布がカイ2乗分布から期待されるより大きく、またすそを長く引いています(このあたりの事情は標本分散の分布から一目瞭然ですが、煩雑になるのでここでは割愛します)。 このことは学生諸君の技量が一定でないためです。 先に紹介したように、学生諸君が「規格外不良」としてものを当方がチェックするとほとんど「規格内合格」となります。 たぶん学生実験でしばらく修行を積んだ5月ごろに実施すれば、もっと安定した結果が出るものと予想されます。 実際、ピペットがきれいに洗えておれば、ぼくのような不束者がやっても標準偏差は 3 µL 程度に収まります。
実験の初心者が測ってホールピペットでどれぐらいの精度が出るものかというと、標準偏差にして 0.010 mL 程度。 もっと手練を積めば、この数倍の精度 0.003 mL(= 3 µL)は見込めるでしょう。 初心者が操作してもピペットから落ちる水1滴の体積 0.05 mL の5分の1。熟練すれば10分の1以上の精度が出るというのはちょっと驚きです。
実験で使用するホールピペットの採取容量の正確さ(目盛り付けの正しさと言っても良いでしょう)を調べたところでは、全体の平均は 9.999 mL で公称の値が極めて正確に再現されました。 ただし数%(~5%)程度、規格(±0.02 mL)を外れた品があるようです。 購入後ピペットの先端が欠けたりして流下速度が速くなりすぎたものもあり、この数字がただちに市販のピペットの不良率を与えるものではありません。 けれども学生実験で使用するホールピペットの健全性を確保する上でも、この課題を実施する意味があることは確かなようです。