2004.5.5.

セスキ炭酸ナトリウム(トロナ)について

吉村洋介

今日セスキ炭酸ナトリウムと一般に呼ばれているものは、炭酸水素ナトリウムと炭酸ナトリウムの複塩で、Na2CO3・NaHCO3・2H2O(式量 226.03)という組成を持つ物質です。 天然にもいわゆる天然ソーダの一種として産出し、トロナ(trona。エジプトで発見、命名)あるいはウラオ(urao。ベネズエラで発見、命名)という名前で知られています。 米国ワイオミング州には埋蔵量1000億トンという大規模な鉱山があり、現在、炭酸ナトリウム(ソーダ灰)の重要な供給源となっています。

セスキ炭酸ナトリウムという名前

「セスキ炭酸ナトリウム sodium sesquicarbonate」という名前は慣用的に用いられているものですが、実は誤っています。 「セスキ炭酸ナトリウム」というのは、元来、ナトリウム1に対して炭酸が1.5倍(セスキ sesqui-)含まれているいう意味で、Na2O:1.5CO2 という組成、つまり Na2CO3・2NaHCO3 という型の複塩を意味しています。

時どき「セスキ」の意味を、炭酸1に対してナトリウムが1.5倍という意味に解しておられる方がおられるようですがそれはちがいます。 それなら「炭酸セスキナトリウム」と呼ばなければいけません。 「重炭酸ソーダ(重曹)」 sodium bicarbonate が、ナトリウム1に対して炭酸が2倍、Na2O:2CO2 という組成に対応していることを思い出していただいてもよいでしょう。

この誤った名前が通用しているのには、どうも歴史的な事情が多分にあるようです。

最初にアフリカ産の天然ソーダ、トロナの分析値を与えたのは Klaproth という人で 1802年のことでした。 この時 Klaproth は Na2CO3・2NaHCO3・3H2O(2Na2O:3CO2:4H2O)という組成式を与え、この組成式に基づいて「セスキ炭酸ナトリウム」と呼んだのです。 この後、1852 年になって Laurent がベネズエラ産の天然ソーダ、ウラオに対し Na2CO3・NaHCO3・2H2O という組成式を与え、その後数十年かけて、この組成式がトロナに対しても妥当することが明らかにされます。 そうした研究の歴史が十分意識されていたためか、ぼくが見たところでは、1920年代の権威ある本には「セスキ炭酸ナトリウム」という名前は歴史的な呼び名としてしか使われていません。

ところが正しい組成式では、「テトラトリタ炭酸ナトリウム sodium tetratritacarbonate(= 4/3炭酸ナトリウム)」ということになり、あまり気が利かないように思われたのでしょうか、セスキ炭酸ナトリウムという誤った名前がそのまま生き続けることになったようです。 そしてかっての研究の衝撃が薄れていく中で、今や大手を振って通用しているわけです。 ぼくは個人的にはセスキ炭酸ナトリウムという名前は使いたくないのですが、正しい呼び方をすると返って混乱を招くようなので、実験のテキストなどにはセスキ炭酸ナトリウムという名称を用いています。 ここでは以下、もっぱら「トロナ」と呼ぶことにします。

炭酸ナトリウムと炭酸水素ナトリウムと水

トロナが最初「セスキ炭酸ナトリウム」と誤って同定され、50 年以上かかって今日の化学式にたどり着いたことは先に紹介したとおりですが、事の背景にはそもそもトロナ自体の厄介な性質があったようです。

たとえば等モルの炭酸ナトリウムと炭酸水素ナトリウムを水に溶かして蒸発させたからといってトロナは析出せず、炭酸水素ナトリウムが析出してくるだけです。 さらに氷で冷やしたりすると、どんな割合で混ぜようが、トロナは出てこずに炭酸水素ナトリウムか炭酸ナトリウムが出てくるだけです。 あるいはトロナの結晶を水で洗浄すると後に炭酸水素ナトリウムが残ります。


図1a.Na2CO3 - NaHCO3 - H2O 系の 15℃における相図

図1b.Na2CO3 - NaHCO3 - H2O 系の 25℃における相図

図1に示すのは 15℃と 25℃における炭酸ナトリウムと炭酸水素ナトリウムと水、3成分系の相図です。 青い線は溶液と固相の相線を示します。 トロナは 15℃では溶液と共存できませんが、25℃になると共存できる領域が現れています。 詳細な研究によると、21.3℃以下ではトロナはいかなる組成でも溶液と共存できません。 つまり再結晶しようとして溶液を冷やしたりしたらトロナ析出しない。 あるいはすでにトロナが析出していたら、そのトロナは冷却することで分解してしまうのです。

おわりに

炭酸ナトリウムと炭酸水素ナトリウムからどのような化合物ができるかは、ソーダ工業(特にソルベー法)では極めて重要で、古くから詳細な研究が行われています。 しかしそうした研究は、今やほとんど完成してしまったものなので、今日のぼくたちの目に触れることはあまりありません。

先人の培ってきた豊かな知見は大事にしたいものです。 また炭酸ナトリウムも炭酸水素ナトリウムも余りに身近なもの。 そうした“当たり前”のものの示す多彩な振る舞いへの関心は、失わないでいたいと思っています。

参考文献

[1] "Gmelins Handbuch der anorganischen Chemie," 8th ed, Natrium, 1928.

[2] Mellor, J.W., "A comprehensive treatise on inorganic and theoretical chemistry," Vol. 2, Longmans 1922; Supplement 1972.


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