無機化合物の合成を通じて物質の変化のありさまに触れ、かつ基本的な化学薬品の取り扱いにも習熟することを期す。 ここでは鉄(III)のシュウ酸錯体のカリウム塩、トリスオキサラト鉄(III)酸カリウム K3[Fe(C2O4)3]·3H2O(式量491.24)を合成する。 鉄(III)のシュウ酸錯体は比較的容易に合成でき、日光写真(青写真)に用いる感光材料としても知られている。 ここでは硫酸鉄(II)から、一端シュウ酸鉄(II)に導き、過酸化水素で酸化して、鉄(III)のシュウ酸錯体をえるという手順で合成を行う。
硫酸鉄(II)七水和物(緑礬(リョクバン)とも呼ばれる。土壌改良・排水処理・顔料等に使用される) にシュウ酸を加え、シュウ酸鉄(II) FeC2O4·2H2Oを調製する。 なおシュウ酸鉄(II)は分取せず、スラリーのまま次の合成手順に移る。
(注1)一端吸引を停止してから氷水を結晶全体が浸る程度に注いだ後、吸引を再開して水切りする。
合成したトリスオキサラト鉄(III)酸は、およそ450 nmより短波長の光を吸収してほぼ定量的に鉄(II)に還元されることが知られている 。 日光写真(青写真)は、この光化学反応で生成した鉄(II)と赤血塩の反応を利用したもので、 かつては図面の複写等に広く用いられていた(シュウ酸錯体以外にもクエン酸錯体なども用いられた)。
新型コロナウィルス COVID-19 の問題が起きて、 課題の大きな変更を迫られました。 磁化率は残したかったのですが、 鉄シュウ酸錯体の合成と日光写真に話を絞り込んで、 1日完結の課題に設定しました。
シュウ酸鉄(II) FeC2O4·2H2O は橙色の不溶性の粉末です。 テキストにあるように、シュウ酸溶液に硫酸鉄(II) の溶液を滴下していくと、 色づき、だんだん濁ってきて、黄土色の沈殿ができてきます (ここら辺の色は、後の酸化して Fe(III) になった時の色との対比もあるので覚えておいて欲しいところ)。 テキストの処方でいくと硫酸鉄(II)七水和物は室温で全部溶けますが、 シュウ酸二水和物の方は室温付近では完全には溶けません (シュウ酸二水和物の溶解度は、室温付近で水 100 g に対して 15 g 程度)。 そこで加温してシュウ酸を溶かし、 硫酸鉄(II)溶液を加えていくという段取りになっています。 (シュウ酸量(28 mmol)は、硫酸鉄(II) (14 mmol)の2倍。 反応を完結させるために大過剰に取っています)
概してこういう沈殿を作る反応は、濃度をあまり上げずに、 加温してゆっくり溶液の混合を行うのが基本です。 そうすることで生成する沈殿が均質になり、 沈殿粒子のサイズを大きくできます。 取りあえず混ぜればいいだろうというのでも、 まったくダメというわけではないですが、 不均一になって沈殿内部に未反応物を包含したり、 沈殿がフワフワのものになって扱いずらくなったりします (表面積が増えて吸着物も増える)。 このあたり、この合成法は濃度を高く設定していて、 いささか基本からはずれているのですが、 これはできるだけ水を減らし、廃液量を減らそうというポリシーになっています。 ですからせめて硫酸鉄(II)溶液を加えるときは、ドサッと一気に入れず、 攪拌しながらゆっくり滴下していって欲しいのです。 また「放冷静置」というのも、 文字面だけ見ていると何でもないようですが、 待つのは結構つらいもの。 2度目の放冷静置は適当でいいですが、 最初の放冷静置は少し辛抱してもらいたいところです。
シュウ酸鉄(II) を沈殿させるところでは、 ビーカーを少し傾けておくと沈殿がビーカーの底の一方に偏ってくれるので、 デカンテーション(ワインをたしなむ人は、デカンタージュはおなじみでしょう) がやりやすくなります。 またデカンテーションで上澄みを取り除き、 その後もスポイトで溶液を除くように指示してありますが、 少々溶液が残ってもかまいません。 溶存するシュウ酸や硫酸塩などは後の反応を妨害するものではなく、 最終的に鉄(III)シュウ酸錯体を得る段階で除かれるので、 あまり頑張って除ききる必要はありません。
硫酸鉄(II) 溶液。少しがんばると、全部溶けるはず。 | 加熱したシュウ酸溶液に、硫酸鉄(II)溶液を滴下していくと、 溶液が黄色くなり、沈殿が生成してくる。 | しばらく放置して沈殿させる。 |
鉄の酸化は過酸化水素を用いて行います。 シュウ酸鉄(II) の懸濁液にシュウ酸カリウム一水塩(水によく溶けます)を加えると、 液の色が橙色がかります(何か錯イオンができるようですが詳細不明)。 ここに過酸化水素水を加えていくと黒ずんだ色になり、 少し気体が発生します。 そして所定量の過酸化水素水を加え終わるころには、 茶褐色の懸濁液になります。
この状態では溶液のpH が高く水酸化鉄の沈殿ができているわけですが、 シュウ酸を加えていくと pH が下がり、 水酸化鉄(III)が鉄(III)シュウ酸錯体になって、 溶液は鮮やかな緑色になります。
過酸化水素水を滴下すると、滴下した付近は黒くなる。 | 過酸化水素水を滴下終了。 少し気体が発生する | シュウ酸を加えると、沈殿が消えていく。 | 最後は緑色の溶液になる。 |
得られた鉄(III)シュウ酸錯体の溶液を冷却すれば、 トリスオキサラト鉄(III)酸カリウム K3[Fe(C2O4)3]·3H2O の結晶が析出してきます。 テキスト通りに操作しておれば、特に濃縮操作は必要ありませんが、 途中、余分に水を加えたりした場合は、適宜、加熱濃縮しておきます。
溶液の冷却にあたっては、急に氷水に浸けたりせず、 そのまま机の上において数十分かけて放冷するようにします。 「数十分」というのはかなり幅のある表現ですが、 30分ぐらいもかければよいでしょう。 こうすることで大きめの結晶ができてきます。 ここで氷冷して、さらに結晶を析出させます。 ある程度、種結晶ができているので、 この段階では少々速く冷却してもいいのです。 こうした二段構えの冷却法が、標準的な冷却法だと思います。
結晶化操作には、人により、対象物質により、目的により、いろいろ流儀があります。 たとえば今回の場合、収率を高めようとするなら、 アルコールを加えることも考えられます。 しかしアルコールを加えたりすると、 微結晶が生成して濾別が困難になり、表面に付着した不純物の影響も出てきます。 あるいは今回は比較的簡単に結晶が生成してきますが、 場合によっては、いつまでたっても結晶が出てこないことだってあります。 そうなるとなりふり構っておられません。 種結晶を入れてみたり、煮詰めたり、フリーザーで氷結させたり、 あの手この手で「祈り出す」ことになります。 このあたりは、今も経験と勘がものをいう領域が広がっています。
ゆっくり冷やしていくと、少しずつ結晶が出てくる。 | 机の上において待つこと30分。 こんな感じで結晶ができてくる。 | 氷冷するとさらに大量に結晶析出。 |
結晶を分取するについて注意すべき点は、 付着している溶液(母液)を効率よく除く(水切りする)必要があるということです。 吸引ろ過を用いるとろ過が速いのは無論、 空気を通じることで、結晶の粒の間の溶液を吹き落としてくれるので、 水切りが効率よく行えます (茹でた麺の湯切りにブロアーを使う気分ですかね)。
結晶の分取を重力式のろ過で行うのはお薦めしません。 重力式でろ紙上に結晶を集めようとすると、 付着している水が落ち切るには1時間くらいかかり、 氷冷して分取する場合など、温度が上がって析出した結晶の再溶解が起きたりします。 待たずに分取すれば、ベトベトに濡れ、ひどいときには泥のようなものになることもあります。
吸引ろ過はある程度量があれば(5 g ~)ブフナーロート(Büchner funnel。 化学ではよく「ヌッチェ」と呼びます)を使うのが便利ですが、 今回はもっとお手軽に、下の写真のように普通のガラスロートに綿を詰めたもので間に合わせてよいでしょう。 結晶が細かくて 0.1 mm 以下ぐらいのサイズになってくるとうまくないですが、 今回の場合はこれで十分です。 ただ綿についた結晶はロスになるので、 収率を追求する分にはちょっと残念。 というわけで綿を使ったこの手法は、結晶を採取するより、ろ液を採取する場合に有利。 硫酸ナトリウムなどの乾燥剤を除くのに、よく使われます。
ロートに綿を詰めて、吸引瓶に取り付ける。 | ビーカーをかき混ぜ、結晶を懸濁させて流し込み、 結晶を分取する。 ビーカーに残った結晶は、ろ液(飽和溶液)で懸濁させ、 再度流し込むようにする。 | ビーカーの結晶を移し終わったら、 ロートの中の一件を取り出す。 詰めた綿に付着した結晶は捨てる。 | 採取した結晶 |
従来の鉄(III)シュウ酸錯体の合成手法は、 容量分析実験で調製した 8 mol/L 水酸化カリウム溶液の再利用が前提で、 手法としては硫酸鉄(II) を過酸化水素で酸化した後、 シュウ酸を加えた後、水酸化カリウム溶液で中和するという手順で行っていました。 新型コロナウィルス COVID-19 の問題が起き、 容量分析実験で水酸化カリウム溶液の調製がなくなったので、 手法を変更し、中野さんから以前教えてもらった、2012年化学オリンピックの課題 鉄オキサラト錯体の合成と分析の合成手法も参考に、 シュウ酸鉄(II) の合成を介する格好で課題を設計しました。
化学オリンピックの課題ではエタノールを加えて鉄シュウ酸錯体を析出させますが、 今回の手法はエタノールの添加や溶液の濃縮操作が必要なく、 また新規に試薬を購入する必要がないようになっています。 シュウ酸カリウムの在庫がなかったのですが、長らく置いていた炭酸カリウムとシュウ酸があり、 量論で混合して合成、幸便に在庫の処理も行えました。
シュウ酸鉄(II) はフンボルト石(Humboldtine。A. von Humboldt(フンボルト兄弟の弟の方)にちなむ)として天然にも産出し、 構造的には Fe 原子間をシュウ酸イオンが橋掛けしている、1次元の鎖構造をとっています (越後・木股, Phys. Chem. Minerals, 35 467 (2008))。
シュウ酸鉄(II) は熱分解すると、酸化鉄(II) になり、生成した酸化鉄(II)は多孔質で極めて反応性に富み、空気中で発火したりすることが知られています。
FeC2O4 → FeO + CO + CO2
これは古くから知られている実験で、 自分で合成したシュウ酸鉄(II)を使ってもらってもよいのですが、 乾燥に手間がかかるので、以前合成したシュウ酸鉄(II)の在庫を使って、 挑戦してもらって結構です。
試験管にシュウ酸鉄(II) を入れます | バーナーで加熱すると黒くなってきます。 水が出てくるので、試験管の口は下げておいた方がよい | 最終的に真っ黒になります。 | 内容物を空気中に取り出すと、 熾火のようになり、赤黒い酸化鉄(III)になる。 |