2020.10
吉村洋介
遷移金属錯体と磁性

2.コバルト(III)エチレンジアミン錯体の合成と光学分割、旋光度の測定

3価のコバルトは配位子と強く結合し配位子の交換が起きにくい。 このため幾何異性体や光学異性体を単離することができる。 ここではトリス(エチレンジアミン)コバルト(III)塩の光学分割を行い、 アタゴ社のポータブル屈折旋光計 RePo-5を用いて光学分割した塩の旋光度を測定する。

実験はまずコバルト(II)のエチレンジアミン錯体を、 過炭酸ナトリウム(炭酸ナトリウムの過酸化水素付加体 Na2CO3·(3/2)H2O2) を用いて酸化してコバルト(III)のエチレンジアミン(en)錯体を得る (実際に得られるのは、NaClを含んだ複塩[Co(en)3]Cl3·(1/2)NaCl·3H2Oである):

CoCl2 + 3en + (1/2)H2O2 + HCl → [Co(en)3]Cl3 + H2O

得られたラセミ体のコバルト(III)のエチレンジアミン錯体(±)[Co(en)3]3+に、 (+)酒石酸(L-酒石酸)塩を加え、溶解度の低い(+)[Co(en)3]3+の(+)酒石酸塩を分取する。

(±)[Co(en)3]Cl3 (aq) + (+)tart2- → (+)[Co(en)3][(+)tart]Cl・5H2O↓ + (-)[Co(en)3]3+ (aq)

得られた(+)酒石酸塩は、より溶解度の低いヨウ化物として単離する。

(+)[Co(en)3][(+)tart]Cl·5H2O + KI → (+)[Co(en)3]I3·3H2O↓

また(+)[Co(en)3]3+を(+)酒石酸塩として除いた溶液から、 (-)[Co(en)3]3+をヨウ化物として単離する。

(-)[Co(en)3]3+ (aq) + KI → (-)[Co(en)3]I3·H2O↓

この一連の操作で特に注意すべきは、ヨウ化物イオンの濃度を十分高く保っておかないと、 [Co(en)3]I3の溶解度が大きくなることで、安易に水で洗浄を繰り返すと収率が大きく低下する。 このことは[Co(en)3]Cl3についても同様で、塩化ナトリウムを過剰に加えているのは、 [Co(en)3]Cl3の溶解度を下げるためである。 またラセミ体のヨウ化物(±)[Co(en)3]I3の溶解度の方が(+)[Co(en)3]I3 (あるいは(-)[Co(en)3]I3)より低いため 、安易に再結晶を行うと、 かえって光学純度の低下を招くことがあるので注意する。

2-1.トリス(エチレンジアミン)コバルト(III)塩の合成

[Co(en)3]Cl3·(1/2)NaCl·3H2O = [Co(C2H8N2)3]Cl3·(1/2)NaCl·3H2O (FW 428.85)

塩化コバルト(II)六水和物(CoCl2·6H2O)1.0 gを15 mLの遠沈管に取り、 25 w/v%エチレンジアミン溶液4 mLを加えよく混和する。 この溶液を氷冷し、振り混ぜながら6 mol/L塩酸2 mLを加えた後 、 過炭酸ナトリウム(Na2CO3·1.5H2O2) 0.4 gを加えて混和して溶解させ、暗赤色になった溶液を湯浴中で30分程度加熱する (気体が発生することがある。遠心管の蓋を固く閉めないようにする)。 暗い橙色になった溶液を湯浴から取り出し、飽和食塩水5 mLを加えて氷冷すると橙色の結晶が析出してくる。 吸引ろ過して結晶を採取し、5 mL程度の10%程度の食塩水 (飽和食塩水を3倍程度に希釈したもの)で洗浄した後、 少量のメタノールで洗浄し、ろ紙上で乾燥する。 ここで得られるのはラセミ体のコバルト(III)のエチレンジアミン錯体の塩化ナトリウムとの複塩 (±) [Co(en)3]Cl3·(1/2)NaCl·3H2Oで、 このまま以降の操作に用いる。 収量は1.5 g程度(収量が0.5 gに満たない場合は、再度合成に挑戦することを推奨する)。

2-2.トリス(エチレンジアミン)コバルト(III)塩の光学分割

2-2-1.(+)酒石酸塩としての(+)トリス(エチレンジアミン)コバルト(III)の光学分割

(+)[Co(en)3][(+)tart]Cl·5H2O = (+)[Co(C2H8N2)3] [(+)C4H4O6]Cl·5H2O (FW 512.83)

2-1で合成したエチレンジアミンコバルト(III)錯体の複塩((±) [Co(en)3]Cl3·(1/2)NaCl·3H2O) をサンプル管に0.8 g(1.9 mmol)とり、(+)酒石酸二ナトリウム二水塩 (Na2C4H4O6·2H2O FW 230.08) 1.0 g(4.3 mmol)と水を3 mL加えて、水浴中あるいはホットプレート上で撹拌しながら加熱溶解させる。 サンプル管に蓋をして(パラフィルムを用いてもよい)、 できた濃い橙色の溶液を冷蔵庫中 5 °C 程度に一夜放置し結晶を析出させる 。

この結晶の析出には時間がかかる。 急ぐ場合には氷冷してもよいが、結晶が微細になり分取操作に手間取ることがある。 なお、使用する水の量が少なかったりした場合、原料の(±)[Co(en)3]Cl3の塩が析出してきて、 得られる結晶が不均質になることがあるが少量であれば無視してよい。 不安がある場合には、分け取った溶液の旋光度を測定してみよ。 所期の通りの(+)[Co(en)3]3+の酒石酸塩の結晶が得られているなら、 結晶を採取した後の溶液は左旋性を示すはずである (RePo-5を用いておよそ -2.0° ~ -1.5° 程度。(-)[Co(en)3]3+の旋光能の方が (+)酒石酸の旋光能より大きい)。

結晶の析出してきた溶液をしばらく氷冷した後、 スポイト(あるいはパスツールピペット)を用いて溶液を分取し、 析出してきた(+)[Co(en)3]3+の(+)酒石酸塩 ((+)[Co(en)3][(+)tart]Cl·5H2O)の結晶を採取する (結晶が微細な場合には吸引ろ過する)。 分取した溶液は(±)体を含んでいるので、 希釈等せずに別途2-2-3で用いる。 採取した結晶はまず30 %メタノール溶液3 mLで洗浄後、 メタノール3 mLで洗浄し、ろ紙上で乾燥させる。

2-2-2.(+)トリス(エチレンジアミン)コバルト(III)ヨウ化物の合成

(+)[Co(en)3]I3·H2O (FW 637.96)

得られた(+)[Co(en)3]の(+)酒石酸塩0.4 gに水1.5 mLを加え、 湯浴中で加熱し溶解させた後、ヨウ化カリウム0.8 gを加えると橙色の沈殿 ((+)[Co(en)3]I3·H2O)が生成する。 よく振り混ぜヨウ化カリウムを完全に溶解させてから、氷冷してしばらく置き、 吸引ろ過して沈殿を分取する。 沈殿は30 w/v%ヨウ化カリウム溶液2 mLで洗浄後、 メタノール4 mLで洗浄し、ろ紙上で乾燥する。

2-2-3.(-)トリス(エチレンジアミン)コバルト(III)ヨウ化物の合成

(-)[Co(en)3]I3·H2O (FW 637.96)

(+)[Co(en)3] を (+)酒石酸塩結晶として除いた溶液を十分氷冷し、 析出してくる結晶があれば、スポイト(あるいはパスツールピペット)を用いて溶液を分取する。 分取した溶液を湯浴中で加熱し、ヨウ化カリウム1.2 gを加えると橙色の沈殿 ((-)[Co(en)3]I3·H2O)が生成する。 よく振り混ぜヨウ化カリウムを完全に溶解させてから、氷冷してしばらく置き、 吸引ろ過して沈殿を分取する*。沈殿は30 w/v%ヨウ化カリウム溶液2 mLで洗浄後、 メタノール4 mLで洗浄し、ろ紙上で乾燥する。

* 溶解度の低いラセミ体((±)[Co(en)3]I3·H2O)を除くため、 ここで得た結晶に5 mL程度の水を加えて湯浴中50~60 °Cに加熱して溶解し、 ヨウ化カリウム1 g程度を加えて析出するラセミ体を熱時除去した後、 氷冷して析出してくる純度の高い(-)体を得るという手順を加えてもよい。

2-3.トリス(エチレンジアミン)コバルト(III)塩の旋光能と吸収スペクトルの測定

光学活性な物質の溶液中を偏光した光が進むとき、光の振動面の回転の度合い(旋光度)は、 通過する距離と溶液濃度に比例する。 この比例係数が物質の旋光能と言われるもので、歴史的な経緯もあって、 通常、旋光能は589 nm(ナトリウムの発光スペクトルのD線相当)の光に対し、 光路長10 cm、濃度1 g/cm3に換算した比旋光度specific rotationで示され、 しばしば[α]Dと表記される (温度t °C を右肩に表示し[α]D20 などと表記されることもある)。

単位をあからさまに書くと[° dm-1 g-1 cm3] = [° dag-1 cm2]になるが (dagはデカグラム = 10 g)、 単に [°]と略されることが多い。 モル旋光度[M]Dと呼ばれるものは、通常、モル質量をM g/molとしてM[α]D/100で与えられ、 吸光係数でもよく使用されるような[° cm-1 mol-1 L]という単位が用いられる。 固体では旋光能が大きいので、1 mmあたりの値が用いられることがあるので注意する (単位 [° mm-1 g-1 cm3])。

旋光度は実用的には糖度の決定に用いられ、 本課題で使用するアタゴ社製の屈折旋光計RePo-5は試料量3 mLで、 容易に±0.01° の分解能で、589 nmにおける光路長2.0 cmでの旋光度を測定できる (再現性は±0.05°、精度は±0.1°を保証するとしている)。 かりに4.0 w/v%(= 0.040 g/mL)溶液でRePo-5の示す旋光度(A.R.)が0.56°であれば、 比旋光度[α]Dは、 0.56° × [(1 g/mL)/(0.040 g/mL) × (10 cm/2.0 cm) = 70° ということになる。 また屈折率も同時に得られるので、調製した溶液の濃度の評価に利用できる 。

糖度について実用的にBrix度と呼ばれるものが用いられ(塩分濃度におけるボーメBaumé度に相当)、 測定される密度や屈折率についてショ糖の1 mass%が1 °Brixになるように決められている。 こうした対応については国際砂糖分析統一委員会(ICUMSA)が大きな権威を持っている。 なおICUMSAは旋光度とショ糖濃度の対応についても規定しており、 「国際糖度」(記号 °Z)と呼ばれるものが使用されることもある (26 g/100 mLのショ糖溶液が100 °Zに対応する)。

なお光学純度と呼ばれるものは、測定された比旋光度を、 純粋な対掌体の比旋光度で割ったもので、試料中に含まれる対掌体のモル分率の差 |x(+) - x(-)|に相当する (対掌体過剰enantiomeric excessとも呼ばれeeと略されることも多い)。 したがって例えば(+)体の光学純度80%が、 (+)と(-)の対掌体の組成比(対掌体比 enantiomeric ratioと呼ばれerと略される)でいうと (+)体90%に対応することに注意する。

実験では下記の手順に沿って、まずショ糖溶液についてRePo-5を用いた旋光度測定の健全性を確認した後、 合成した(+)および(-)トリス(エチレンジアミン)コバルト(III)塩溶液それぞれの旋光度を測定し光学純度を決定する。 また吸収スペクトルを測定し、(+)体と(-)体で吸収スペクトルが一致することを確認する。

  1. 水についてRePo-5で旋光度と屈折率、温度を測定し、旋光度が0であり、 屈折率が1.3331(20°C)程度であることを確認する。 その後ショ糖の5~15 mass%程度の水溶液を4 g程度、0.1 mass%の桁まで精確に調製し、 RePo-5で旋光度と屈折率、温度、Brix値を測定し、Brix値が調製した濃度と一致すること、 比旋光度が文献値([α]D20 = 66.5°)と一致することを確認する。
  2. 合成した(+)トリス(エチレンジアミン)コバルト(III)ヨウ化物([Co(en)3]I3·H2O) 0.1~0.2 g程度を1 mgまで精確に秤量してサンプル管に取り、 水4 mL程度を加えて溶かす。 完全に溶解しないようなら水を加えて清澄な溶液にする。 溶液全量を0.01 gまで精確に秤量した後、RePo-5で旋光度と屈折率、温度を測定する。 測定後、旋光度を測定した溶液をサンプル管に回収し、しばらく氷冷する。 結晶が析出してきた場合には(ラセミ体の結晶)、上澄みをスポイトで別のサンプル管に採り、 この溶液について再度RePo-5で旋光度と屈折率、温度を測定する。 同様に(-)体についても測定する。旋光度測定に用いた溶液は、 吸光スペクトルの測定に用いるので捨てない。
  3. 測定した(+)体と(-)体の比旋光度から、 文献値((+)[Co(en)3]I3·H2Oについて [α]D20 = 89°)を用いて、 それぞれの光学純度を求める。 氷冷してラセミ体を除いた溶液については、濃度が屈折率に比例すると仮定し、 元の溶液の濃度をc0、屈折率をn0として c0 × (n - nW)/(n0 - nW)で濃度を評価すればよい。 ここでnWは水の屈折率。
  4. 旋光測定に用いた溶液を10倍に希釈し、CHEMUSB 4吸光光度計を用いて吸収スペクトルを測定し、 (+)体と(-)体で吸収スペクトルが一致することを確認する。 興味のあるものはATR法で赤外吸収スペクトルを取って比較してみよ。

検討

  1. トリス(エチレンジアミン)コバルト(III)錯体は、活性炭の存在下、ラセミ化を起こすことが知られている。 旋光度を測定した残液((+)体でも(-)体でもよい)を遠沈管に取り、 活性炭を少量加えて振り混ぜ、湯浴中で30分程度加熱して冷まし、遠心後、 上澄みの旋光度を測定して旋光度がどう変化するか調べてみよ。
  2. 【余裕があれば】グルコースやフルクトースは結晶を水に溶かすとアノマー間の互変異性平衡が生じて、 旋光度が変化していく(変旋光mutarotation)。 用意してあるフルクトース(あるいはグルコース)を0.2 g程度取って3 mL程度の水に溶かし、 旋光度が時間とともにどのように変化するか調べてみよ。 またフルクトースは温度によってアノマーの比率に差異が現れることが知られている。 糖分を多く含んだ清涼飲料水の旋光度が、氷冷した時変化するかどうか調べてみよ。


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