玉垣さんから、以前書かれた任期制の論文 (「理学部評論」 No.3 [75年1月11日発行] 所載。いちょう No. 95-24[96.6.6.]、No. 95-25[96.6.20.] に再掲。 )についての、解説を寄せていただいています。
私が理学部評論に任期制に関するこの一文を書いた時期は、大学紛争後の1970年代前半で、大学の改革が盛んに論じられ、多くの案が出された頃であった。従来の教授会自治からより広い大学自治のあり方が問われる一方、1973年には筑波大学法案が成立して、従来の学部自治を解体した新運営形態を持つ、中央教育審議会のモデル大学が現れた。1971年には、大学付置の共同利用研究所とは設置形態が異なる国立大学共同利用研究所の第1号となった高エネルギー研究所が発足、「大学自治と離れた場での研究者の身分保証はいかに?」という問題は、教育公務員特例法(教特法)の準用(適用ではない)によることになった。その後の経過は、筑波大学は単発的であったが、大学の管理運営について文部省が「行き過ぎた大学自治」という注文をつける時期が続く。国立共同利用研の方は、この形態でいくつも後続してスタートする。1970年代はこういう時期であった。
この時期に、大学側の代表である国立大学協会(国大協)から第6常置委員会案として、任期制の提言が国立大学教官等の待遇改善と関連して出た。このような待遇改善の要望や申し入れは、ほとんど毎年、国立大学協会や日本学術会議が行ってきた。しかし、結局人事院勧告の枠をでず、ほとんど改善は見られなかった。大学改革論議が盛んな時期であったので、国大協も自らの立場に切り口を入れるような提案で、実効ある動きを求めたのであろうと推察する。この国大協の案は立ち消えになったので、当時任期制は大きな問題にならずには終わった。
提言の中味は、当時文系の一部等で行われていた「助手のみの任期制」を下敷きにしており、上にやさしく下に厳しいものであった。それは、理系の一部の共同利用研で行われていた助手から教授まで、すべてに適用する任期制とは違っていた。後者のような任期制は、交流を活発にする趣旨で研究者同士が合意した紳士協定といえるものであり、研究所側、本人側、関連分野の大学人の不断の努力があって任期制は可能になるものである。そこでは教特法による身分保証は当然の前提にあり、また任期制そのものが自己目的化して機械的な適用にならないような配慮した運用がなされてきた。今回大学審の任期制の提案は、このような実態と経験を知りながらま意識的にそれを抑え、形式と結果を取り上げて、「やれるはず、やれば効果がある」というように出されているように見受けられる。実質は「上からの改革」の任期制になるのではないかと危惧する。教特法を変えるのでなければ、最後のところでは権力者は背景に退き、「いずれも大学側が自分で決めたこと」と言えるようにするのであろうが。
任期制は、どのイニシャチブでなされるかによって、その与える影響が変わってくる意味で、両刃の剣である。当時1974年、ユネスコ第18回総会は圧倒的多数(賛成82、反対0、棄権4)で「科学研究者の地位に関するユネスコ勧告」を採択した1) 。これは、1966年のユネスコとILOの共同による「教員の地位に関する勧告」に並ぶものである。その趣旨は、科学研究者が人類の平和と福祉の増進において果たすべき役割に鑑み、その仕事の遂行にともなう責任と必要な権利を考慮に入れた正当な地位を保証するというものである。勧告はいわば科学研究者の倫理的綱領であり、同時に権利章典であるということができる。任期制の問題を「有効性」のレベルの止まらず、ユネスコ勧告の示すような基本的な視点から考えてみることが必要ではないか。それは、1970年代も今も変わっていない。任期制の扱いは、大学にとっては鼎の軽重が問われる問題でもある。
注
1) ユネスコ「科学研究者の地位に関する勧告」については、「科学者の権利と地位」日本科学者会議編(水曜社、1995年)第Ⅰ部参照。日本政府は、ユネスコ勧告には賛成したが、その過程では終始消極的ないし否定的であった。