ガラス温度計に何も書いていなければ(つまり普通のガラス温度計では)、 目盛りの所までを測定する温度にした状態(全浸没)で、温度計の目盛り付けがなされています。 ですから測定に当たって、温度計の目盛り部分が測定する物体と異なる温度になっていると、温度計の示度は影響を受けます。 特に有機液体温度計(アルコール温度計)では、 たとえば測定している物体の温度が 100 °Cで、0 °C~ 100 °Cの目盛りの部分が室温 20 °Cになっていたとすると、 約 8 % 程度、8 °Cほど低めに温度を読むことになります(「温度を測る話」参照)。 これは実験室で使われるガラス温度計の精度(約~1 K)を大きく上回ります。
小学校の理科の授業でビーカーの中で沸騰する水の温度を測ったりする際など、 この浸没の影響はかなり大きく現れているはず(小さなビーカーを使っていたら 100 °C近くになるはずが95 °Cあるいはそれ以下に出るでしょう)ですが、 あまり注意されていないようです。
あるいは右図のような枝付きフラスコを使った蒸留実験の際、 温度計の球の部分をフラスコの枝の根元にセットすることは、みんなよく知っています。 けれども実験室で普通使用される全浸没型のガラス温度計を使用した時、 たとえ温度計の球の位置を正しくセットしても、 蒸留温度が低めに出てしまうことは意外に知られていないようです。 正確に蒸留温度を出すには、温度計の浸没の深さの影響を評価しておいてやる必要があります。 ですから蒸留に用いるちょっと本格的な温度計には、 下図に見るようにどれぐらい挿入すべきかが指示されています。
蒸留装置に組み込む温度計(ガラスのすりが付いている) | |
温度計の裏には「挿入 40 mm」と、 どれぐらいの長さ蒸気に触れさせるかの指定がある。 |
ここではこの温度計の浸没の影響を知ってもらうために、今年の講義の中で行った実験について紹介します。
写真1 湯の容器と断熱材 | 写真2 当日の室温 10 °C |
百円ショップで売っていたパスタ入れの容器に、 温度計を差し込めるように穴を開けます。 それを右の写真のように、実験室にあった梱包用の発泡スチロールのブロックで囲んで保温したものを用意しました。 パスタ入れの容器はポリプロピレン製で、 熱湯を入れると柔らかくなってパッキンが甘くなって水漏れが起きることがあるので、 針金で容器の下部を縛ってあります(講義中に実験をした時、温度を測っているときはよかったのですが、 後で黒板に向かって説明している最中、容器の口が開き、時限爆弾よろしく教卓に湯があふれ出してしまいました。 学生は喜んだようですが、こちらはノートがずぶ濡れで大損害)。 パスタ入れの容器と発泡スチロールのブロックは、中ほどをタコ糸でくくってあります。 この日の実験室の気温は10 °Cでした。
さて実験です。 容器に湯を満たし、まずはガラス温度計の液だめの部分の少し上の方まで湯に付けて温度を読みます。 温度は 71 °Cでした。 そこで温度計を湯の中に沈めていきます。 すると温度計の示す温度は約 75 °C。 温度計全体を湯に浸ける事で、約4 Kだけ温度計の示度が上がったわけです。
測定中に湯の温度は下がりこそすれ、上がることはないはずです。 また温度が不均一になっていたとしても、 温度の高い方が比重が小さいので、容器の上部の方ほど熱くなっているはずです。 観察された 4 Kの温度上昇は見かけ上のもの、 温度計の浸没による効果とみることができます。 室温と液温の差が 60 K で、写真3で見るように、室温にさらされている目盛りの部分はざっと90 K 分。 温度計の中の液体の膨張率が 1/1000 K-1 とすれば、写真3のように温度計の先のところだけを湯に浸けると、 5 K 程度の温度計の示度の減少が起きることになり、実測とだいたいあいます。
写真3 温度計の先の方だけ湯に浸す。 | 写真4 温度計は 71 °C。 | 写真5 温度計を湯にじゃぼ浸けする。 | 写真6 温度計は 75 °C。加熱せずとも温度が上がる! |
さて写真5~6のように完全に浸けた状態から引き出して、 最初の写真3のように、温度計の先の方だけを浸した状態にもどしてみます(写真7)。 この時の温度は最初の写真3の状態とほぼ同じか若干高めの 72 °C弱。 湯は冷めこそすれ、温まる道理はないので不思議に思えます。 さてここで濡雑巾の登場です(写真8)。 冷たい水道水で濡らした雑巾で、温度計を拭いてやると、温度は 69 °C(写真8)。
温度計を湯に完全に浸けた状態から引き出した状態(写真7)では、 まだ温度計が十分冷めていなかったため、浸没が不十分な効果が弱められていたのです。 それを濡雑巾で冷ましてやることで、写真3のように室温との差がくっきり見えるようになったわけです。 最初より 2 K ばかり温度が下がったのは、 測定中に湯が冷めて温度が2 K ほど下がったことに相当します。
写真7 温度計を引き出して、再び先の方だけ浸ける。 | 写真8 温度計は 72 °C弱。 | 写真9 濡雑巾で温度計を拭って冷ます。 | 写真10 温度計の目盛りの部分が冷めると 69 °C。 |
ガラス温度計の浸没にともなう示度の問題は、古くからよく知られている問題ですし、 ほとんど液体の熱膨張率だけの議論で、難しい理屈もほとんどありません。 それなのに学生諸君がこの問題についておよそ何も知らなかった(認識していなかった)ことは、ぼくにとって新鮮な驚きでした (何と当物理化学研究室の、非常に優秀な院生でさえ知らなかった!)。
昔先輩から、「融点(そして融点降下)をたよりに物質の同定をしていた時代があった」と聞きました。 実際、今となってはほとんど利用価値のない、さまざまな有機物を融点の順に並べた表が、研究室の図書にありました。 そうした時代には温度計は非常に大事にされ、浸没の効果なども誰もがよく知る問題だったでしょう (今も薬局方に浸線付きの温度計について詳しい記述があるのは、そうした歴史があるからのようです)。
ぼくはまだそうした空気を、少しは嗅いだ世代ということになるのかもしれません。 それだけに、こうした些細なことではあるが、大きなつまずきに繋がりかねない問題を正しく伝えていかねばとならないと思ったしだいです。