体積変化の化学の物理化学的基礎

第0章 はじめに

0.1 体積変化の化学の現況

本研究の目指すところは、溶液中の化学反応にともなう体積変化を理解するための物理化学的基礎と、それが溶液反応、さらには溶液一般の理解の中で占めるべき位置を明らかにすることにある。

化学反応にともなう体積変化は古くから様々な問題関心の下に研究されてきた。 その最も初期のものとしては、分子論の確立の上で大きな役割を果たした19世紀初頭のGay Lusaacの気体反応の法則を挙げることができる。 その後、19世紀後半には電解質溶液の研究の中でいわゆる静電収縮が発見され[0.1]、草創期の物理化学の大きな成果の一つとなった。 この静電収縮は、今に到るまで論じ続けられているわけであるが、化学反応にともなう体積変化の研究を今日のように盛んにしたのは何と言っても、 1930年代の化学反応の遷移状態理論の登場と、それに基づく“活性化体積”の反応論への適用であった[0.2]。 この30年余り、反応機構の解明のための武器としての体積変化に注目が集まり多くの実験的研究が行われてきている。 特に70年代に入ってからは、高圧下の光学的測定が格段に容易になったことも手伝って飛躍的に多くの研究が現われるようになった[0.3]。 すでにこの分野における報文は優に1000報を越える。中でも近年の魚崎らによる環化付加反応に対する研究は、反応機構を論ずる上で体積変化とともに他の手法(溶媒効果等)も駆使し、 体積変化を用いた反応機構研究の今日の到達点を示した目覚ましい研究といえよう[0.4]

これまでの体積変化に関わる研究の長い歩みと、莫大な知見の集積を前にすると、最初に述べた本研究の目指すものは極めて大仰で、ややもすれば夜郎自大の誹りを免れないかもしれない。 しかし、一般に考えられるほど化学反応の体積変化に対する物理化学的検討は進んでいない。 卒直にいえば化学反応の体積変化の化学はこの間の関連諸分野の発展の中、いまだ19世紀段階の理解に止まっているのである。

このような言明は、いささか奇矯なものに聞こえるかもしれない。 現に、現代的な問題意識の上に立って数多の化学反応の体積変化が決定されさまざまに解釈がなされているではないかと。 しかし、それらの問題意識は、実はほとんどが化学反応の体積変化と無縁である。 最近もっとも注目を集めていると思われる錯イオンの配位子の置換反応に対する研究[0.5]でいえば、 反応が dissociative か associative かがその中心的な問題意識であり、けっして「体積変化がいかに決まるか。」という性格のものではない。 今も活発に研究されている有機化学反応についてもその主たる問題意識は反応機構の解明であり、けっして体積変化それ自身を志向するものではなかった。 体積変化はいわば手段として用いられたにすぎず、体積変化の化学自身は華々しい反応機構の化学の影で凍えているのである。 詳細は本論の中で触れるとして、ここでは簡単に従来の体積変化理解の枠組みとその問題点を指摘しておこう。

今日、化学反応の体積変化は高圧化学あるいは化学反応論といった分野の中で主として取扱われている。 ここでの体積変化の理解の枠組みは、1935年にEvansとPolanyiが活性化体積について提唱したもの[0.2]を、ほとんどそのまま受け継いでいるといってよい。 EvansとPolanyiは、活性化体積(単なる体積変化についても同じ考えが適用されるので本研究では、区別せず体積変化についてのものとして扱う)を次の二つの項からなっているとした。

つまり、体積変化 \(\Delta V\) は

\begin{equation} \Delta V = \Delta_1 V + \Delta_2 V \label{eq:011} \end{equation}

となる、というわけである。 従来、物理化学の分野ではこの枠組自身は自明の前提とされ、 この溶媒和の寄与 \(\Delta_2 V\) に対して静電収縮など多くの論及がなされてきた。 しかし、問われねばならないのはまずこの枠組である。

「何故に、\(\Delta_1 V\)、 \(\Delta_2 V\) という形で体積変化を加算的に理解することが可能であるか?」という根本的な問題はまず置くとして、 この体積変化の理解の最大の誤りは、分子レベルの問題を巨視的なレベルの問題とすりかえていることにある。 このような立場からは、先に最初期における研究として触れた、気相反応における体積変化を説明できない。 気相反応で化学量論係数が1変化する反応について、理想気体近似の下、0 °C 1 気圧で 22.4 dm3 mol-1 の体積変化が現われるはずである。 これは先の \(\Delta_1 V\)、 \(\Delta_2 V\) という枠組みでは \(\Delta_1 V\) に相当することになるが、 そうすると“分子それ自身の体積”の変化が、分子の種類によらず一定であることになり“分子固有の体積”とはとうてい言えまい。

次に従来の枠組みにおいて、先験的にその存在が仮定されていた“分子それ自身の体積”という概念は、決して自明なものではない。 “分子それ自身”が一つだけ真空中に置かれているとき、その体積なるものが定義できるだろうか? 分子の波動関数の拡がりをもってこれを定義しようにも波動関数の値は無限遠においてはじめて0となる。 波動関数の拡がりから“分子それ自身の体積”を定義するなら“分子それ自身の体積”は無限大である!

後述するように“分子それ自身の体積”は、他の分子との間に働く力・相互作用エネルギ-を決める因子を、 それぞれの分子にファデルワ-ルス半径などという形で割り当てることによって、はじめてある程度合理化することができる。 従来の解釈の立場に立つものは、“分子それ自身の体積”として、そのような“分子模型”の幾何学的な体積を思い描いてきた。 しかし、とするなら、こうして得られた“分子それ自身の体積変化” \(\Delta_1 V\) は、溶媒分子との相互作用を人為的に溶質分子と溶媒分子に割り当てて得られたものであり、 “溶媒との相互作用の変化” \(\Delta_2 V\) の一部にすぎない。 つまり、“分子それ自身の体積変化” と “溶媒との相互作用の変化”を対置すること自身、無意味なのである。

これらの解釈の道具立ては結局のところ19世紀に行なわれていたものとおつかつである。 「固有の体積」は、19世紀に活発に議論された「原子体積」から一歩も出るものではない。 さらに、「溶媒和の体積」の中核をなす静電収縮理論は、Ostwald が中和反応について見い出し Drude-Nernst によって説明の与えられたもの[0.1]、 それに幾分かの粉飾を凝らしたものでしかない。(今日における取扱いも結局のところ、問題を誘電率の圧力依存性にすりかえるものである) これらの取扱いは、いまだ分子論の妥当性の有無さえも定かならぬ時代には確かに有効な考えたりえたであろう。 しかし、分子論が確立し、また多体問題に対する統計力学的処方箋の充実した現時点においては、アナクロニズムということばがその悪き意味においてふさわしい。 上の簡単な議論でも明らかなとおり、体積変化の化学は分子論のもつ真のインパクトを受け止めきれなかったのである。

このように、これまでの体積変化の理解の枠組みが根本的に誤っていたという視点に立ってみれば、 従来、体積変化の理解をめぐってしばしば混乱がみられ改良のための様々な提案がなされてきたのは極めて当然のことと言えよう。 この改良のための試みとしては、Gonikberg による“自由体積変化”の考慮の必要性の指摘[0.3b]、 le Noble と浅野による“すきま体積(void volume)”、“膨張体積(expansion volume)”の考慮の必要性の指摘[0.6]などは最も代表的なものである。 しかし、これらの試みはそれらが上に見たような誤った体積・体積変化に対する理解に根差していた結果、ただその時々の矛盾点を塗布するに止まったのである。 今日求められるのは、旧来の理解の枠組みからの決定的な脱却であり、その根本的な転換なのである。

0.2 本研究の視点

旧来の枠組を信じ、「溶媒和の体積変化」なるものに注目している限りは、体積変化の化学は腐朽した従来の枠組の精緻化、せいぜい単なる“補正”に終わるのがおちである。[補注1] 本研究は、従来の物理化学的諸研究が溶媒和の体積変化に注目することの多い中、「本質的体積変化」なるものに目を向けることに始まった。 前節でも触れたようなこの「本質的体積変化」の中に押し込められていたさまざまな問題を旧来の枠組から解き放つ中で、 何より問題なのは従来の議論があたかも分子論的に見えてその実、巨視的物体の分子レベルへの安易な外挿に他ならないことにあることが明らかとなった。 一般に物体の熱力学的性質は、分子レベルで見れば多体の問題である。 この一体の問題から多体の問題への移行にともなう問題の性質の変化を従来の議論はまったくと言っていいほど考慮に入れてこなかったのである。

この移行にともなう問題として、大きく二つの点を指摘することができる。 巨視的物体のそれぞれ1個をとればその物体を1個の分子と見立てた熱運動のエネルギ-は、われわれが普段問題にする巨視的物体の運動エネルギ-に比べて取るに足りないほど小さい。 しかしそういった物体を多数集め、その統計的挙動(たとえば圧力はそれぞれの物体が器壁の単位面積あたりに及ぼす力の期待値である)を論じる段階になれば熱運動は時として決定的な役割をはたす。 このような問題を、前節でも触れた「自由体積」といった概念、あるい「膨張体積」などといった概念で処理する試みはある。 しかし、本研究でも触れるがこれらは安直な思い付き以上のものではない。 第二に、これが主要な問題になるわけだが、分子論的なレベルへの移行を行なう際には対象とする反応物・生成物のみならず溶媒の側についても分子論的な取り扱いを行なわねばならないことである。 従来の議論ではしばしば「第一近似としては許される」と言わんばかりに溶媒の側の分子論的成り立ちは無視されてきた。 しかし、何故に許されるのであろうか? その根拠たるや他人もやっているといった程度のものでしかない。 本研究で触れるように、これはまったくのいかさまである。

このように、考えるべき体系の設定についての問題を整理することができるわけだが、何より問題なのはある体系が分子論的に組立てられたからといって、 それがいかに部分分子容に、体積変化に現われるかということである。 巨視的な物体の体積の測定という操作を、安直に分子レベルの部分分子容の測定という操作に外挿することはできない。 分子レベルでは、測定する手段も分子論的にふるまう。この根本的なところでの考察抜きに従来の議論は組立てられていたのである。

このように、分子論への移行にともなう問題を正面から論じることは一見極めて困難で、とうてい不可能のように思われるかもしれない。 しかし、実はこれまで液体の統計物理の中で Kirkwood をはじめ多くの人々によって真剣にこれらの問題については論じられている[0.7]。 なかでも、60年代に入っての計算機実験による液体の構造性に対する知見の増大、 さらに70年代に本格化した液体のファンデルワ-ルス描像を核とした摂動論の展開[0.8]はとりわけ画期的なものであったといえよう。 これら液体の統計物理におけるその豊かな成果は、われわれに部分分子容、体積変化の化学の物理的基礎を与えてくれるものである。

ここまで、罵倒にも近い形で従来の体積変化の化学に対する論述を行なったかもしれない。 しかし、批判されるべきは従来の体積変化の化学を支えていた誤った理解の骨組であり、体積変化から自然を見つめるという視点ではないことを強調しておきたい。 従来の体積変化の化学において、体積変化の化学が困難を孕んでいることを承知で多くの化学者はそれと格闘したのであったろう。 それは始めにも述べたように、きわめて多くの多岐に亘る研究を生み出してきた。 たとえそれらの研究の多くが「反応機構」を論じることに急で体積変化そのものに切り込むことがかなわず、 またその結果、逆に「反応機構」へ鋭く切り込むこともかなわなかったとしても、そこには体積変化という窓から化学反応を眺めるという認識の視点があったに違いない。 化学が人間の物質に関わる認識を扱うものであるとするなら、体積変化の研究が一人一人の化学者の真剣な思索の上になる以上、そこには何らかの意味があるはずである。 それは結局のところ、分子をその“大きさ”、“ひろがり”という点で捉えようとしたことにあったと思われる。 今日盛んに行なわれる分子の描像において、原子核の配置とその周りの“電子雲”がその基本を形作っている。 もし、電子雲の代わりにハミルトニアンの中で想定されているような電子のある一つの配置を書けば、おそらく人びとは寒々とした分子の姿をそこに見て、何か不安さえ覚えるかもしれない。 この寒々とした印象は分子が“大きさ”を失ったことに対応するもののように思われる。 0.1節でも触れたように波動関数からえられる電子雲のひろがりは無限であり、分子の“大きさ”を電子雲にすりかえるのは正しくない。 しかし、分子をその“大きさ”、“ひろがり”という点で語れないものかどうかはまた別問題である。

従来の体積変化の理解の枠組では、分子には何か自明な“大きさ”なり“ひろがり”なりが存在し、またそれが部分分子容にそのままの形で反映されるものと考えられていた。 この点で、従来の体積変化の理解を支えていた枠組それ自体はナンセンスであったといいうる。 しかしその枠組の背景にある物体の大きさという概念、さらには物体間の引力という概念は、われわれがこの自然を認識する感覚の重要な部分をなすものである。 そうであるからこそ、これまでの体積変化の化学を今日の液体の統計物理の到達点の中に正しく位置付け、体積変化の化学が明らかにしたものが何であったのかを示す必要がある。 それによって初めて、従来の体積変化の化学・部分分子容の化学の多くの成果に対して分子の成り立ちに沿った形での展望が与えられることになろう。 そしてまた、そこにこそ物理化学という学問の本来の位置があるように思う。


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