部分分子容・体積変化を議論するさい、これまで「いかに部分分子容・体積変化が、決まるか?」は、真剣に問われることが余りに少なかった。 しばしば「体積は理解しやすい量である。」といった考えが表明されたりもした。 しかし何をもって「理解」したことにするかは不問に付されてきた。 「体積はエントロピ-と異なり、分子の配置のみによって決まる。」ともいわれた。 しかし分子の配置によって、如何に体積が決まるかが正面きって論じられることはなかった。
このような貧困は、とりわけ気体反応の体積変化を考える上で露呈される。 気体反応においては分子の個性によらず反応の化学量論係数変化のみによって体積変化が決まる。 このことはEvans-Polanyi流の、「体積変化は"分子それ自身の変化"と"溶媒和の変化"の和である」とする立場からは説明できない。 なぜなら気体中では溶媒和は無視することができ体積変化はすべて"分子それ自身の変化"となるはずだが、 こうすると"分子それ自身の体積"が、分子の種類によらず、また温度・圧力によって変化することになってしまうからである。 従来このような問題は取扱われることが極めて少なく、また取扱われるとしても「自由体積」といったあいまいな概念で片付けられてきた。 こうした混乱の最大の原因は、「部分分子容(あるいは、体積変化)がいかに決まるのか」に対する考察の不足にある。 手にしたリンゴの体積を測るといった巨視的な問題においては、水を満たしたたらいにリンゴを沈め、あふれ出る水の体積を測ればよい。 この場合、測定に要する観測手段(=水)の分子論的なりたちは無視できる。 これとは異なり、ある分子の部分分子容を測定するには、観測する手段自身が分子論的な存在であるという問題を避けて通るわけにはいかない。
この章においては、部分分子容・体積変化の形式論を論じ、無限希釈状態における部分分子容という視点から、部分分子容・体積変化の組立てを明らかにする。
よく知られているように、いわゆる応答関数は、その系の対応するゆらぎを用いて表わすことができる(付録 1 を参照されたい)。 \(c\) 成分系における \(j\) 成分の部分分子容は、一般に次のような式で定義される。
\begin{equation} V_j = \pdifA{V}{N_j}{T, P, N_{i \ne j}} \label{eq:1.1.1} \end{equation}
ここで、\(V\) は体系の体積、\(T\) は温度、\(P\) は圧力であり、\(N_i\) は \(i\) 成分の粒子数をしめす。 この表式は部分分子容が、対象とする成分の粒子数増加に対する体積の応答であることをしめしている。 したがって、部分分子容は開かれた系におけるなんらかの対応するゆらぎによって表現できるはずである。 体系のゆらぎという次元で部分分子容の問題をとらえることができれば、確率論的な視点、分子論的な視点を部分分子容の理解に持ち込むことが可能となる。
熱ようどう理論からするような熱力学的な体系の組立てを重視した部分分子容の描像と、 この章の最初で触れた水を満たしたたらいにリンゴを浸すことによってリンゴの体積を測定するといった、巨視的な部分分子容についての描像の関係を考えることにしよう。 一般の多成分系についての議論は見通しが悪いので 1,2 という成分からなる二成分系、 そして 2 が極めて希薄な状態にある場合について議論を進めることにする(一般の場合の表式については付録 2 を参照されたい)。 つまり、1 は溶媒、2 はその中に溶けた無限希釈量の溶質とするわけである。 このことによって、注目する 2 という分子の間の相関を取り除いて議論することが可能となる。 これは巨視的な測定においては、リンゴを沈めるたらいに最初水だけを満たしておくことに相当する。 リンゴと水の入ったたらいにリンゴを入れたとした時、水が溢れださずに最初から入れてあったリンゴが外に溢れだすようなことがあればリンゴの体積はうまく測れない。
さて、このような二成分系で 2 の部分分子容 \(V_2\) は次の式で与えられる。
\begin{equation} V_2 = \pdifA{V}{N_2}{T, P, N_1} = -\pdifA{N_1}{N_2}{T, P, V} V_1 \label{eq:1.1.2} \end{equation}
ここで、\(V_1\) は1の部分分子容(\(\partial V/\partial N_1\))である。 この場合 \(V_1\) は純粋の 1 の分子あたり比容 \(\partial V/\partial N_1\) に等しい。 これは、まさに上の巨視的な描像と一致する表現である。 つまり、ある容器に 2 という溶質分子一個を導入したとき外に溢れだす 1 の粒子の数((\(\partial N_1/\partial N_2\)) に 1 の分子あたりの体積をかけたものが、2 の部分分子容になるというわけである。 一見、問題はこれ以上のものでないかのようにも見える。 しかし、体系の熱力学的な構成を考える立場(そして、これは熱ようどう理論において最もあからさまな形で現れることになるわけだが)からは、 「いかに2の粒子を体系に持ち込むか」という観測にともなう操作が記述されねばならない。 2の粒子を体系の中に導入する際には、体系と接する観測者(熱浴)側の2の化学ポテンシャルを高め、それによって2の粒子の体系への導入を行なう。 こうしたとき、観測する側で制御できるのは示強的変数のみである。 今、体系の体積は一定であるという拘束条件の下で温度・圧力を一定に保ちながら、 1 と 2 の化学ポテンシャルを操作することによって、2 の粒子の導入を行うものとしよう。 こうするなら、\eqref{eq:1.1.2} 式中の 2 を加えることによる 1 の放出 \(\partial N_1/\partial N_2\) は次にように書かれねばならない。
\begin{eqnarray} \pdifA{N_1}{N_2}{P} &=& -\pdifA{N_1}{P}{N_2} \pdifA{P}{N_2}{\mu_1} + \pdifA{N_1}{N_2}{\mu_1} \nonumber \\ &=& -N_1 \kappa_T \pdifA{P}{N_2}{\mu_1} + \pdifA{N_1}{N_2}{\mu_1} \label{eq:1.1.3} \end{eqnarray}
ここで \(\kappa_T\) は等温圧縮率であり、1 の部分分子容が \(V/N_1\) に等しいことを用いた。 なおこれ以降(5)式まですべて微分は温度・体積一定の条件でとるので簡単のためこれらをア-ギュメントからはぶくことにする。 この式は、2 の導入の際に 1 の化学ポテンシャルを一定に保ったまま 2 を導入し(第二項)、そのため増加した圧力を元の圧力に戻すために 1 の粒子を取り除く(第一項)という操作からなっている。 温度・圧力一定で 2 の粒子を導入するさいに、1 の化学ポテンシャルが変化するため第一項が必要となったともいえる。 さらに \eqref{eq:1.1.3} 式中の第一項で 2 が無限希釈量の存在であることから、
\begin{eqnarray} \pdifA{P}{N_2}{\mu_1} &=& \pdifA{\mu_2}{N_2}{\mu_1} \pdifA{P}{\mu_2}{\mu_1} \nonumber \\ &=& \frac{k_\mrm{B} T}{V} \label{eq:1.1.4} \end{eqnarray}
であることに注意する。 ここで、\(k_\mrm{B} \)はボルツマン定数である。 こうして、最終的に部分分子容の表現として次式をえる。
\begin{equation} V_2 = \kappa_T k_\mrm{B} T - \pdifA{N_1}{N_2}{\mu_1} V_1 \label{eq:1.1.5} \end{equation}
この式は、ゆらぎによる記法では次のようになる。
\begin{equation} V_2 = \left[ \frac{\langle (\delta N_1)^2 \rangle}{\langle N_1 \rangle^2} - \frac{\langle \delta N_1 \delta N_2 \rangle}{\langle N_1 \rangle \langle N_2 \rangle} \right] V \label{eq:1.1.6} \end{equation}
これは、付録2の(A2.3)式からも容易に導くことができる。
このようにして、無限希釈の溶液中での部分分子容の表現が与えられた。 この表現の中の溶媒分子と溶質分子の間の相関はまた論じるとして、ここでは、加えた粒子と溶媒分子についての相関以外に、溶媒分子間の相関が、溶質の部分分子容に寄与するに注目したい。
熱ようどう理論からえられる、溶質と溶媒の相互作用によらない項が部分分子容に寄与する、という結果はカノニカルなアンサンブルの構成からも得ることができる。 今純粋な 1(溶媒)の中に、一個の 2 という分子(溶質)を投入することを考えよう。 このとき、溶媒分子の数および体積は変化しないものとする。 すると、もしまったくこの分子 2 が溶媒分子と相互作用しない(つまり、1 と 2 の間になんの相関もない)とするなら、 それは温度 \(T\)、体積 \(V\) における理想気体と同じふるまいを示す。 したがって分子 2 を投入したことによる圧力増加(\(\partial P/\partial N_2\)) は
\begin{equation} \pdifA{P}{N_2}{T, V, N_1} = \frac{k_\mrm{B} T}{V} \label{eq:1.1.7} \end{equation}
に等しい。これをわれわれは部分分子容という視点から眺めるわけだから、
\begin{eqnarray} \pdifA{V}{N_2}{T, P, N_1} &=& -\pdifA{V}{P}{T, N_1, N_2} \pdifA{P}{N_2}{T, V, N_1} \nonumber \\ &=& \kappa_T k_\mrm{B} T \label{eq:1.1.8} \end{eqnarray}
という体積の増加を観測することになる。 これは、上でみた熱ようどう理論の結果の溶媒分子間の相関に起因する項と一致する。[補注 2]
一見、溶媒と相互作用しない溶質の部分分子容が溶媒の性質に無関係でないというのは奇妙に思える。 この項が現われることについて、熱ようどう理論の立場からは体系中に注目する分子 2 を導入したとき、 それによって溶媒 1 の化学ポテンシャルが溶媒溶質の相互作用のいかんを問わず変化することに対応していた。
カノニカルな系における考察からえられる溶媒と相互作用を持たない溶質の描像は、われわれにとって熱ようどうからのものより幾分か親しみやすいように思われる。 上のカノニカルな系における導出を考えてみると、それは、部分分子容というものをいかに我々が観測するのかという操作に起因していることがわかる。 われわれは、容器の壁にかかる圧力を測定することにより粒子を加えた効果を知る。 そして、粒子数の増加にともなう圧力変化に対する体系の体積の応答として、部分分子容を観測するのである。 この応答の仕方を規定するのが全体系の圧縮率なのであり、それは圧倒的に多数存在する溶媒分子によって決まっている。 したがって、分子が容器の中で並進運動をする、その圧力に対する効果は理想気体におけるのと同じく \(k_\mrm{B}T/V\) なのであるが、 部分分子容に対する効果は \(\kappa_T k_\mrm{B}T\) と、全体系の性質である圧縮率、つまり溶媒に依存することになるわけである。[補注 3]
カノニカルな系についての考察から明らかに、この項は従来「分子運動が体積に及ぼす項」とされてきたものに相当する。 以下この項を「並進(運動)の寄与」と呼ぶことにする。 この呼称は若干の誤解を生むかもしれない。 実際、分子がただ運動しているだけではなんら体積に対して寄与しない。 その運動がある容器の中に限定され、分子が容器の壁と相互作用することによって初めて"体積"として観測にかかるのである。 歴史的には、このような観点から「並進運動の寄与」が見出されている。 Bellと Gattyは、化学ポテンシャルを温度・粒子数一定の下で圧力について微分することによりここでいう「並進運動の寄与」の存在をおそらく最初に指摘した[1.1]。 かれらは化学ポテンシャルに対する考察を援用し、部分分子容が溶質分子と容器の壁との直接の相互作用からの寄与と、溶質-溶媒の相互作用の寄与とからなるとした。 この前者がここでいう「並進運動の寄与」(かれらの言葉を借りれば"相互作用しない溶液中の部分分子容" partial molal volume in a non-reacting solution )である。 しかし、おそらく本研究の中では誤解はおきないと思われ、ここでは従来の体積変化の化学における慣用を尊重することにする。[補注 4]
部分分子容からこの並進運動の寄与を除いた部分は \eqref{eq:1.1.6} 式からも明らかに、溶質-溶媒の粒子数の相関に対応する。 これは溶質の周りの溶媒の配置に密接に関連するわけで、以下、「(分子)配置の寄与」と呼ぶことにする。 この配置の寄与に、問題とする溶質分子の個性がこめられているわけである。
なお本研究ではすべて古典的な体系として取扱い、量子効果は無視する。 実際、われわれが問題とする系では量子効果はきわめて小さい。(付録 3 を参照されたい)