化学反応方程式の係数の決め方は、中学校で習うような話で、 大学でことさらに教えることでもないかもしれません。 けれどもそこには、化学独自の世界観とでも言うべきものが色濃く塗りこめられているように思います。
化学反応で構成元素の数が変わらない(物質不滅の法則)という、化学量論的な関係を化学種に要請することで、 そこに元素で形作られる線形空間が広がっていきます。 化学種と称されるものは、その線形空間の中のベクトルであり、 多彩な化学反応の世界が、そうしたベクトルの線形結合で表現される。 われわれはこうした“世界観”を当然のもののように受け取り、 もっぱらその先にある「異性体」や「分子構造」に注意を向けています。 こうした化学の“日常生活”を少し醒めた目で見ることで、 化学という学問分野の特質が見えてくるのではなかろうかと、 いささかくだくだしい話とは思いましたが、 この話を準備しました。
なおこの話を読んで、飽き足らなく思われた方も多いかと思います。 化学種それ自体の定義に関わる問題については補論で少し触れましたが、 たとえば化学種からなるベクトル空間には計量 metrics は存在しないのでしょうか? 化学合成において、容易に転換可能なもの同士の“距離”は短いと考えてよいのではないでしょうか? あるいは同じような性質を示す「類縁化合物」については、 化学種は互いに近接する位置にあるのではないでしょうか? そうしてそのような化学種の間の“距離”感が、 個々の化学者が持っている独自の世界像を構成しているのではないでしょうか?
こうした問題について、 従来の常識に泥まない新しい人たちが、 われわれの見ることの叶わなかったものを掘り出してくれるのではないかと、 ぼくは密かに期待するものです。