2024.10
吉村洋介
中和反応の体積変化と液体の誘電体モデルをめぐって

4.おしまいに

このおはなしでは 19 世紀に行われた、 中和反応・酸解離反応の体積変化に関わる研究とイオン溶液の誘電体モデルによる静電収縮理論を紹介しました。

典型的な中和反応である、 塩酸と水酸化ナトリウムの反応の場合には(H+ + OH- → H2O)20 cm3 mol-1 程度の水 1 分子に匹敵する体積増加が現れる一方で、 塩酸とアンモニア水の場合には(H+ + NH3 → NH4+)には 7 cm3 mol-1 の体積減少が起きます。 電荷の消失する反応で大きな体積増加が起きることは、 静電収縮で定性的に説明できます。 今日の目から見ると奇妙なことですが、 この中和反応にともなう体積変化の挙動は、 イオンによる体積の収縮というアイデアには結びつきませんでした。 反応にともなう体積変化ではなく、 部分モル体積の実験的研究、酸とそのナトリウム塩の部分モル体積についての研究 (実質的には酸解離反応(中和反応の逆反応)の体積変化の研究)が、 イオンによる体積の収縮という現象の発見につながります。 そしてそれがイオン溶液の誘電体モデル、さらに誘電体モデルに基づく静電収縮理論を生み出すことになりました。

こうした実験と理論の進歩の足取りを見ると、 ものごとを理解する上での枠組み、モデルというものの重要性を思い知らされるように思います。 そもそも強電解質が完全解離しているといった描像(アレニウス 1884)が存在しなければ、 イオンになることで体積の変化が起きるという考えに思い当たらなかったのでしょう (オストワルドは「親和力」で解釈しようとしました)。 また化学の門外漢で、光学、電磁気学の専門家であったドルーデでなければ、 電解質溶液をコンデンサー同様に取り扱おうなどとはしなかったでしょう。 そしてそうした枠組みができ上ると、そのモデル・理論の精緻化が進行していくことになります。 その一方で、枠組みから外れた問題には日が当たらないわけですが・・・

イオンの静電収縮をめぐっては今も活発に研究されています。 そうした中でイオン溶液の誘電体モデルにおける静電収縮の扱いは、 ここでも紹介したボルンの式に基づくイオンの化学ポテンシャル、電位に注目するアプローチがもっぱらです。 今では溶媒の側の圧縮に注目した、ドルーデ-ネルンストのアプローチはほとんど忘れられているように見えます。 けれども実験的に見いだされたイオンの体積の収縮に触発され、 溶媒の圧縮にあくまでこだわったドルーデたちのアプローチからは、 生々しい静電的な相互作用のもとでの溶媒の鼓動が聞こえてくるようです。 誘電連続体モデルに基づくイオン近傍の密度の増大のありさまと、 連続体近似の破綻がリアルに表されます。 そして連続体近似の枠組みから外れた非電解質における問題が、 何か自明な「固有体積 intrinsic volume」などと呼ばれるもので済まされてしまう状況 がより明確に見えてきます。

誘電連続体モデルは、 デバイ-ヒュッケル理論に代表されるイオン間の相互作用の影響を評価する上で、 極めて優秀なモデルです。 そして簡単な道具立てで、体積変化の問題に限らず、 ここでは取り上げなかった発熱的な酸解離反応など反応エンタルピーの問題や、 イオンに関わる種々の熱力学量の挙動に説明を与えることができます。 しかしそこからさらに踏み出すには、 イオンの周囲の液体構造と電束密度の関係にも踏み込んだ、 誘電率に安易にもたれかからない、新しい静電収縮の描像が求められるでしょう。 それには元祖ドルーデたちが持っていた、 あくまで溶媒の側の収縮に寄り添う姿勢が求められるように思います。


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