2022.10
吉村洋介
化学実験 資料編

緩衝液

pH や酸化還元電位などの大きな変動を和らげる溶液を緩衝液(緩衝溶液 buffer solution)と呼び、 通常、弱酸の解離平衡を利用する pH 緩衝液を指します。 弱酸 HA の解離平衡 HA ⇌ H+ + A- を考えると、pH と解離定数 Ka = [H+][A-]/[HA] の間に次の関係が成り立ちます。

pH = pKa + log [A-]/[HA]

ですから弱酸 HA とその共役塩基 A- の濃度が十分大きく、 実験中の反応などによる濃度変動が無視できるなら、 pH の値は pKa 近傍の値で安定に保つことができます。 なお弱酸と共役塩基の濃度比 [A-]/[HA] を調整することで、設定する pH の値を変えることができますが、 これには限度があります。 たいていの実験では数 mmol/L 程度ぐらいまでの濃度での応答をみるので、 実験に影響を及ぼさないように緩衝液に使用する酸塩基の濃度は 0.1 mol/L 以内には抑えたいところで、 また pH を安定にするには、弱酸 HA とその共役塩基の濃度は 0.01 mol/L 程度は欲しいところです。 このため弱酸と共役塩基の濃度比で変えることのできる緩衝液の pH の値は、 およそ pKa ± 1.0 の範囲になります。

ここでは pH の代表的な緩衝液として、pH 標準液Clark-Lubs の緩衝液トリス緩衝液を取り上げます。 またしばしば問題になる緩衝液の pH の温度依存性についてもまとめておきます。

1.調製 pH 標準液

公的に pH の値の基準となる緩衝液が定められています(JIS 8802:2011「pH測定方法」)。 国家認定を受けた製造者の供給する「認証 pH 標準液」を購入して使用することもできますが、 次の処方箋に沿って調製した「調製 pH 標準液」を使用することもできます(カッコ内の pH の値は 25 °C における典型値。試薬の精製法は省略)。 高い精度を求めないのであれば、調製 pH 標準液に準ずるもので十分でしょう。

シュウ酸塩緩衝液(pH 1.68)
0.05 mol/kg 二シュウ酸三水素カリウム溶液。 二シュウ酸三水素カリウム二水和物(KH3(C2O4)2·2H2O)12.606 gを水に溶かして1 L にする。
フタル酸塩緩衝液(pH 4.01)
0.05 mol/kg フタル酸水素カリウム溶液。 フタル酸水素カリウム 10.119 g を水に溶かして 1 L にする。
中性リン酸塩緩衝液(pH 6.86)
0.025 mol/kg リン酸二水素カリウム KH2PO4、0.025 mol/kg リン酸水素二ナトリウム Na2HPO4 溶液。 リン酸二水素カリウム 3.390 g とリン酸水素二ナトリウム 3.536 g を水に溶かし 1 L にする。
ホウ酸塩緩衝液(pH 9.18)
0.01 mol/kg ホウ砂溶液。 四ホウ酸ナトリウム十水和物(Na2B4O7·10H2O)3.804 g を水に溶かして 1 L にする。
炭酸塩緩衝液(pH 10.02)
0.025 mol/kg 炭酸水素ナトリウム NaHCO3、0.025 mol/kg 炭酸ナトリウム Na2CO3 溶液。 炭酸水素ナトリウム 2.092 g と炭酸ナトリウム 2.640 g を水に溶かして1 Lにする。

pH や 体積(1 L)は 25 °C における値です。 他の温度における pH の値は「pH の原理と測定」の付表を参照してください。 以前は容量モル濃度で定義されていたので、用いる試薬のおもさが以前の規格と若干変わっています。

実際に学生実験で使用する分には、市販のフタル酸水素カリウムなどをそのまま用いています (二シュウ酸三水素カリウム二水和物はシュウ酸の在庫がたくさんあるので、合成・再結晶したものを使用)。 1 L 作るようにしていますが、おもさは 0.01 g までの秤量で済ましています。 また炭酸塩緩衝液については、セスキ炭酸ナトリウム(トロナ) Na2CO3·NaHCO3·2H2O 4.75 g(0.025 mol)を水に溶かして 1 L にするということにしています。 これまでのところ、実験で得られた酢酸やトリスの pKa 値などには問題がなく、 こうした調製法は妥当なものと判断しています。

2.Clark-Lubs の緩衝液(pH 1.0~10.0)

Clark-Lubs の緩衝液は古くから知られた緩衝液で、精度は高くありませんが、 ありふれた試薬の組合せで幅広い pH 領域の緩衝液を構成できます (W. M. Clark and H. A. Lubs, J. Bacteriol. 2, 1 (1917)。 この論文は酸塩基指示薬による pH 決定に関する第1部で、 第2部第3部が引き続き刊行されています。 W. M. Clark and H. A. Lubs, J. Biol. Chem. 25, 479 (1916) も参考になります)。 この緩衝液は JIS K8001「試薬試験方法通則」にも採用されています (緩衝能については、その後詳細に検討されています)。

Clark-Lubs の緩衝液は pH 領域に応じて 5 種類あり、20 °C で使用することが想定されています。 次の A~F の物質 X について、それぞれの 0.2 mol/L 溶液を、下表のように VX mLずつを混合し、 水を加えて全量を 200 mL にして調製します (原報によります。 文献によっては全量が 100 mL になるように数値を調整していることなどがあります)。

A: 塩酸 HCl、B: 塩化カリウム KCl、
C: フタル酸水素カリウム C8H5O4K、D: 水酸化ナトリウム NaOH、
E: リン酸二水素カリウム KH2PO4、F: ホウ酸 H3BO3

たとえば pH 5.0 の緩衝液であれば、 0.2 mol/L のフタル酸水素カリウム溶液 50.00 mL と 0.2 mol/L の水酸化ナトリウム溶液 23.85 mL を混ぜ、 水を加えて 200 mL にするわけです。 なお pH 7.8~10.0 の緩衝液で VB+F としてあるのは、 B と F それぞれが 0.2 mol/L、つまり 1 L 中に塩化カリウム 14.91 g、ホウ酸 12.37 g 溶けた溶液のことです (原報は当時の原子量が今と違っているので(ホウ素 B の原子量が 11 だった時代)、少しちがう重さ 12.4048 g を取っています。 今の原子量を使うのは適切でないかもしれませんが、精度的に問題ないと思うので 0.2 mol/L の ”顔” を立てています)。

表 1.pH1.0~2.2 A 塩酸、B 塩化カリウム
pH1.01.21.41.61.82.02.2
VA97.064.541.526.316.610.66.7
VB50.050.050.050.050.050.050.0
表 2.pH 2.2~3.8  A 塩酸、C フタル酸水素カリウム
pH2.22.42.62.83.03.23.43.63.8
VA46.7039.6032.9526.4220.3214.709.905.972.63
VC50.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.00
表 3.pH 4.0~6.2 D 水酸化ナトリウム、C フタル酸水素カリウム
pH4.04.24.44.64.85.05.25.45.65.86.06.2
VD0.403.707.5012.1517.7023.8529.9535.4539.8543.0045.4547.00
VC50.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.00
表 4.pH 6.0~7.8  D 水酸化ナトリウム、E リン酸二水素カリウム
pH5.86.06.26.46.66.87.07.27.47.67.88.0
VD3.725.708.6012.6017.8023.6529.6335.0039.5042.8045.2046.80
VE50.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.00
表 5.pH 7.8~10.0  B 塩化カリウム、F ホウ酸、D 水酸化ナトリウム
pH7.88.08.28.48.68.89.09.29.49.69.810.0
VD2.613.975.908.5012.0016.3021.3026.7032.0036.8540.8043.90
VB+F50.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.0050.00
緩衝液に pH とは一見無関係な塩化カリウムなどが加えられているのは、 この Clark-Lubs の緩衝液が元来、酸塩基指示薬に関わる比色法用のものだったためです。 酸塩基指示薬の塩誤差については当時からよく知られており、 イオン強度を調整するために塩化カリウムが加えられているようです。 イオン強度に関する緩衝効果も加味された緩衝液になっているといえるでしょう。 なお pH 10 以上の pH 領域については、炭酸水素ナトリウム NaHCO3 -水酸化ナトリウム NaOH(pH 9.6-11.0)、 リン酸水素二ナトリウム Na2HPO4 -水酸化ナトリウム (pH 10.9-12.0)NaOH などがあります (R. G. Bates and V. E. Bower, Anal. Chem. 28, 1322 (1956)。 JIS K8001「試薬試験方法通則」にも採用されています)。

3.トリス Tris 緩衝液

トリス(ヒドロキシメチル)アミノメタン(単にトリスと呼ばれます。(CH2OH)3CNH2)は、 生物化学的な用途でよく使用されます。 さまざまな処方が知られていますが、下記は Bates と Bower による Clark-Lubs にならった処方で、 0.1 mol/L のトリス(ヒドロキシメチル)アミノメタン溶液 Vtris mLと 0.1 mol/L 塩酸 VHCl mL を表 6 のように取って混ぜ、 水を加えて100 mL にします(Clark-Lubs の半分のスケール)。 なおこれは 25 °C の値で、温度を 1 °C 上げると pH は 0.03 程度減少します。

表 6.Tris 緩衝液
pH7.07.27.47.67.88.08.28.48.68.89.0
VHCl46.644.742.038.534.529.222.917.212.48.55.7
Vtris50.050.050.050.050.050.050.050.050.050.050.0

4.緩衝液の pH の温度依存性

緩衝液の pH 温度依存性は、緩衝液を構成する酸解離定数 Ka の温度依存性でほぼ評価できます。 酸解離定数の温度依存性は、ファントホッフの関係から、 解離のエンタルピー変化 ΔrH を用いて次式で評価されます(R は気体定数、T は熱力学温度)

ln 10 × d pKa/dT = ΔrH/RT2

酸解離反応のエンタルピー変化は、一般に強酸は発熱的で弱酸は吸熱的、 また電荷の変化のない反応(たとえば NH4+ ⇌ H+ + NH3 )の方がより吸熱的になります。 表 7 には Goldberg らがまとめた緩衝液に関わる酸解離の標準エンタルピー変化 ΔrH° (R. N. Goldberg, N. Kishore, and R. M. Lennen, J. Phys. Chem. Ref. Data, 31, 231 (2002)) から、学生実験に関わりそうなものをまとめました (25 °C、イオン強度 0 での値です)。

表 7.弱酸の解離エンタルピー変化 ΔrH° と解離定数 pKa の温度依存性
(25 °C、イオン強度 0 )
化学式pKa ΔrH° /kJ mol-1 103 (dpKa/dT)/K-1
酢酸CH3COOH4.756-0.41-0.2
アンモニアNH4+9.24551.9531
ホウ酸H3BO39.23713.88.1
炭酸H2CO36.3519.155.4
HCO3-10.32914.78.6
HEPES*C8H18N2O4S7.56420.412.0
シュウ酸H2C2O41.27-3.9-2.3
HC2O4-4.2667.004.1
リン酸H3PO42.148-8.0-4.7
H2PO4-7.1983.62.1
HPO42-12.3516.09.4
フタル酸C8H6O42.950-2.70-1.6
C8H5O4-5.408-2.17-1.3
硫酸HSO4-1.987-22.4-13.2
トリスC4H12NO3+8.07247.4528
* HEPES は 4-(2-hydroxyethyl)-1-piperazineethanesulfonic acid ?。 いわゆる Good の緩衝液(Good は人名)の1つで、よく目にします。

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