last revised 2020.12 / 2020.10
吉村洋介
赤外分光

3.多原子分子の赤外吸収スペクトルと分子間相互作用(水素結合)

<概要>

メタノールの気相・液相の赤外吸収スペクトルを測定し、液体中の分子間相互作用によって赤外吸収スペクトルがどのように変化するかを考える。またATR法で測定した赤外吸収スペクトルの特徴を理解する。

準備課題

  1. 大まかにC-C、C-O結合の伸縮振動に由来する吸収は、1200 cm-1程度の領域に現れる。 (B-1)~(B-3)式を用いて、C-C、C-O結合をばねと見なしたときのばね定数は何 N m-11程度であると考えられるか (独立したCC、COといった二原子分子のように考えて実効質量を評価する)。 またC-H、O-H結合の伸縮振動はおおむね3000 cm-11程度の領域に現れる。 C-H、O-Hのばね定数は何 N m-11程度であると考えられるか?
  2. メタノール分子には振動の自由度がいくつあるか?

実験

  1. 透過型セル内にメタノール(液体)を一滴垂らし、気体メタノールの赤外吸収スペクトルを測定する。(事前にバックグラウンドスペクトルを測定すること。シリコン窓を使う必要はない)
  2. 2枚のシリコン窓でメタノールを薄い液膜にしてはさみ込み、透過型セルにセットして、透過法で液体メタノールの赤外吸収スペクトルを測定する。
  3. 全反射型測定ユニットをFTIRに取り付け、ATR法で液体メタノールの赤外吸収スペクトルを測定する。

解析・検討課題

  1. 測定したメタノールの赤外吸収スペクトルのどの吸収帯(バンド)がどのような振動運動に対応するか、可能な限り帰属を試みよ。
  2. 気相における赤外吸収スペクトルのピーク(バンド)が、それぞれ、中心の鋭いピークとそれを挟む2つのなだらかなピークからなっていることを確認せよ。 メタノール分子の回転運動は、大きな質量を持つC-Oという二原子分子の回転運動が、 H原子が付加されることで若干の摂動を受けたものとみることもできる。 HClの振動回転スペクトルと対比して、メタノールの回転線の振舞いを考察せよ (Q 枝が禁制でなければどのような振動回転スペクトルになるか考えてみよ)。
  3. 液体メタノールについて透過法とATR法の結果を比較し、ATR法で高波数側の吸収強度が低く出ることを確認せよ(ATR法の解説cを参照)。 また 1020 cm-1 付近の鋭い吸収のピーク位置は、透過法とATR法で一致するか?
  4. 気相と液相の赤外スペクトルを比較し、気相で見られた分子回転に由来するスペクトル構造が液相で認められなくなっていることを確認せよ。 液相で頻繁に分子衝突が起きるために回転運動が妨げられているために回転線が認められないとすると、 液相ではどの程度以上の頻度で衝突が起きていると考えられるか?
  5. 水素結合の影響を受けて、液相ではいくつかの吸収ピーク(バンド)が大きくシフトし強度も変化する。 特にO-Hの伸縮運動に注目し、吸収ピーク(バンド)のシフト、強度の変化(C-Hの伸縮運動があまり大きな影響を受けないものとして比較してみればよい)を調べよ。 そのピーク位置のシフト・強度の変化はどのように説明できるだろうか?
  6. 【余裕があれば】 重水素化メタノールCH3ODを合成して赤外吸収スペクトルを測定し、 CH3OHの吸収スペクトルとの差異を考察せよ。

メタノールの赤外吸収スペクトルのこと

ここまで気相中の分子の赤外吸収スペクトルを二酸化炭素 CO2や水 H2O について概観し、 2原子分子HCl、DCl について、その内実を少し詳細に掘り下げました。 ここではメタノール CH3OH、 6個の原子からなる多原子分子について、 気相と液相の赤外吸収スペクトルを眺めることになります。 すでに有機化学実験で、 多原子分子の固相での赤外スペクトルを ATR(減衰全反射。Attenuated Total Reflection)法で調べていますが、 大きな分子になることでどんな挙動が現れるか、 また他の分子との相互作用の中で、何が変わるかを眺めてもらおうというわけです。

気相におけるメタノールの赤外吸収スペクトル

気相のメタノールの赤外スペクトルは、 ここまでの塩化水素などと同様にとればよく (重水素化した CH3OD のスペクトルとの比較を考えるとあまり推奨しませんが、 お手軽にキャップに入れて測るのもOK)。 実際に得られるスペクトルは図 1 に示したようなものになります。

図1. メタノール蒸気の赤外吸収スペクトル。 有機化学で出てくる「官能基の特性吸収帯」を参照して、 大まかに伸縮振動と変角振動に帰属。 それぞれの吸収帯には P枝、Q枝、R枝と見まがうような構造が現れる。

このメタノールのスペクトルの吸収帯は、 有機化学実験の "スペクトルによる構造推定" で出会う赤外スペクトルの「特性吸収帯表」にある、 C-O 伸縮の 1000~1250 cm-1、 C-H 伸縮の 2800~3100 cm-1、 O-H 伸縮(非会合)の 3500~3700 cm-1、 種々の変角等(指紋領域)の 800~1400 cm-1 にならっておおよそ帰属してみることができます (特性吸収の波数領域の値は文献によって前後するが、まあこのあたり。 詳しい特性吸収帯の表には、さらに1級アルコール、2級アルコール等の区別なども載っている)。 ここで C-H 伸縮の吸収帯は、 解説 E にもあるように、 対称と逆対称伸縮の2つに分裂しています (有機化学実験で得た安息香酸メチルの赤外吸収スペクトルでも、 このことは確認できます)。

このように大まかに振動モードの帰属はできますが、 それぞれに呼気の二酸化炭素のスペクトルで見たような、 P枝、Q枝、R枝のような回転構造が現れます。 ただしその現れ方は吸収帯によって違っていて、 C-O 伸縮では明瞭ですが、 O-H 伸縮などではかなり崩れています。 このような回転構造が出現するのを定性的に理解するには、 メタノール分子を、C-O という大きな質量を持ったコア(質量数 28)に、 軽い水素原子がいくつか付いた(質量数 1 × 4)ものだと見なしてみるとよいでしょう。 分子の回転運動が C-O という2原子分子として大まかに記述でき、 それを個々の振動モードにともなう双極子モーメントの変動を通じてモニターしている。 前に見たように一酸化炭素 CO では Q 枝は見えませんが、 水素原子が付いたことで、振動の方向と回転軸が直交しなくなり Q 枝が見えるようになったと考えればよいわけです。

メタノール分子を「C-O もどき分子」と見なすアプローチの有効性と限界は、 より詳細なスペクトルデータを見るとはっきりします。 図 2 にはデータベースから得た高分解能の赤外線吸収スペクトルを示します。 図 2a の分解能 0.125 cm-1 のスペクトルでは、 C-O 伸縮振動にともなう「P枝、R 枝もどき」が多数の回転線からなっていることが見て取れます。 よく見ると回転線の間隔は一酸化炭素 CO の場合 の半分で、 一本一本の回転線が少し分裂しています。 回転線の間隔が回転定数の2倍、2B でなく B 程度になっていることは、 回転励起についての Δ J = 0, ±1 といった選択則が機能しなくなっていることを示唆します。 また回転線が構造を持つことは、 単純な「C-O もどき分子」では理解できません。 このことは図 2b のより高分解能のスペクトルからも明瞭です (ちなみにこの HITRAN on the web はプロ仕様の高分解能吸収スペクトルのデータベース。 3回生レベルでは持て余すかもしれませんが、少し背伸びしてみるのもいいでしょう)。 確かに「C-O もどき分子」らしい構造があるのですが、 ほとんど無数のスペクトル線が現れています。 同様のことは呼気のスペクトルで詳細に触れなかった、 水の振動回転スペクトルでも見えていたところです。 メタノールのような簡単な分子でも、 その振動回転スペクトルはこのように複雑な挙動を示すことは、 心しておいてもらってよいでしょう。

図 2a. より高分解能のメタノールの赤外線吸収スペクトル。 NIST の webbookのスペクトルデータから作成。 図 2b. さらに高分解能の 1034 cm-1 付近のメタノールの赤外線吸収スペクトル。 HITRAN on the webでシミュレートした結果 (296 K、0.01 atm)。

透過法による液体の吸収測定

図 3a. シリコンの窓を2枚重ねて使います。 図 3b. 透過光測定用のアクリルのパイプにセット。

液体のメタノールのATR 法による測定は、 有機化学実験で行ったのと同様、 測定中にメタノールが蒸発して消失しないよう注意すれば (蒸発が激しいときはカバーグラスをかければよい)、 問題なく測定できます。 けれども液体の透過法での測定は簡単ではありません。 メタノールの赤外線の一番強い 1000 cm-1 付近の吸光係数は、 およそ 100 mol L-1 cm-1 程度です。 メタノールの濃度(密度)はざっくり 25 mol/L (0.8 g/mL)というところですから、 光路長が 1 cm だと吸光度が 2500。 これでは光がまったく通りませんから、 吸光度を 1 ぐらいに抑えようとすると光路長を 数 µmにする必要が出てきます。 そこで図 2 に示すように、 シリコンの窓を2枚重ね、そのすき間にメタノールを浸み込ませて測定を行います(液膜法)。

以前は2枚重ねのシリコン窓をテフロン窓にセットしてバックグラウンドを測定。 それを取り出してシリコン窓の間にメタノールを注入した後、 再びキャップにセットして測定という手順を踏んでいました。 しかしセットし直すことでバックグラウンドがいささか変動するので、 現在もっぱら採用しているのは、 キャップの側面に開けた 2 mm ぐらいの穴からメタノールを注入する手法です。 こうすることで手間が省け、バックグラウンドは安定するようになりました。 けれどもメタノールを注入する際に、 外に漏れ出てくるメタノールが蒸発して、 メタノール蒸気のスペクトルが出てくるのには注意が必要です。

液相におけるメタノールの赤外吸収スペクトル

透過法(液膜法)とATR 法で得た、 液相のメタノールのスペクトルを図 4 に示します。 ATR 法では表面付近の赤外光の浸み込みを利用するため、 波長の長い低波数側が強調されています。 またジメドンの赤外吸収スペクトルに関わって触れたところですが、 強い吸収線では低波数側にシフトしたり、 吸収挙動が変化することがあります。

液相のスペクトルを、図 1 の気相のスペクトルと比較すると、 各ピークに見えていた回転構造が失われるとともに、 O-H の伸縮振動の吸収帯が、 3680 cm-1 付近から、 3300 cm-1 付近の低波数側に移動し、 C-H 伸縮に比べて強度が増しピークの幅が広がっています。 また1000 cm-1 より低波数側になだらかな吸収が現れるようになり、 1030 cm-1 付近のC-O 伸縮のピークのふもと、 1100 cm-1 付近に小さなピークが現れています。

図 4. 液体メタノールの赤外吸収スペクトル。 ATR 法では透過法(液膜法)に比べて 3000 cm-1 付近の吸収が、 1000 cm-1 付近の吸収より強調される。 また1030 cm-1 付近のピークが 10 cm-1 ぐらい、 低波数側に出る。

回転構造が失われるのは、 液体中の分子衝突によって回転励起状態が急速に緩和され、 単純な定常状態としての取り扱いができない(J がよい量子数でなくなる)ためとして理解できます。 通常、液体中の分子衝突はおよそ 10-13 s 程度の時間スケールで起き、 これは 1013 Hz / 3 × 1010 cm s-1 ∼ 300 cm-1 程度ですから、 回転運動の緩和には十分です。 このため気相のスペクトルより、 液相のスペクトルの方が線幅が細くスリムになります (平均化によってばらつきが小さくなる)。 この一方、分子間相互作用によってさまざまなエネルギー状態が出現、 ピーク位置がシフトしたり、スペクトルの線幅が広がったりもします。 特に水素結合は大きな影響を及ぼします。

液相でのピーク位置に関する水素結合による影響は、 O-H の伸縮振動に注目すると、 O-H 結合が弱まって振動数が低くなる方向に働きます (このあたりは有機化学の特性吸収帯表にある通り)。 また水素結合で結ばれた分子集団は、 一般に双極子モーメントが揃う方向に配向するので、 吸収強度が大きくなり、 また配向の多様さを反映して線幅が広くなります。 いささか雑駁な議論になりますが、 赤外吸収の遷移双極子モーメント\(\vec{\mu} = \langle f | e\vec{r} | i \rangle\)を測定している試料全体について考え、

\begin{equation} {\vec{\mu}_\mrm{total}}^2 = \sum_k {{\vec{\mu}_k}^2} + \sum_{k \ne l} {\vec{\mu}_k \vec{\mu}_l} \end{equation}

第2項の \(\sum_{k \ne l} {\vec{\mu}_k \vec{\mu}_l}\)、 異なる分子間の遷移双極子モーメントの相間が正で大きいと考えていることに相当します (同様に水素結合性の物質で、誘電率が大きいことも理解できます)。 気相では異なる分子間の相間が小さく、あたかも単独分子を考えているように扱えたわけです。

有機化学の実験で出会った物質を思い出してもらうと、 トリフェニルメタノールではO-H 伸縮の吸収が 3470 cm-1 で、 液体のメタノールより高波数側で、線幅も狭いものでした。 これはトリフェニルメタノールが結晶中で分子間水素結合しているものの、 せいぜい4量体程度のネットワークしか作らないものとして理解できます。 あるいは入門化学実験で取り上げているベンゾピナコールは、 結晶中では分子内結合しているだけで他分子と水素結合を形成せず、 ボルネオールよりも高波数側の 3550 cm-1 付近に弱めの2つに分裂した吸収を示したことを記憶している人がいるかもしれません。

なお液相のメタノールでも、無極性の溶媒で希釈することで、 水素結合していない状態の分子間の相間を垣間見ることができるようになります。 図 5. に示すのは同じく液相ですが、四塩化炭素 CCl4 で希釈したメタノールの赤外吸収スペクトルです (NIST の webbookによる)。 液膜法で測ってもらう図 4 のスペクトルと比べると、 3300 cm-1 の巾広い吸収が少し抑えられ、 3640 cm-1 付近に少し鋭いピークが現れています。 この3640 cm-1 の吸収は、 図 1 の気相で見られた 3680 cm-1 付近に回転線をともなって現れたピークに対応していると考えられます。 こうした溶液の吸収を測るには、 今回用いている液膜法のように数µm の厚みでは薄すぎて、 数十µm の厚みが必要になってきます (普通のコピー用紙で厚さ100 µm、料理用のアルミホイルで 12 µm 程度)。 このためスペーサーを入れた専用の赤外吸収スペクトル用の光学セルも、 専門的には用いられています。

図 5. 四塩化炭素 CCl4 で希釈したメタノールの赤外線吸収スペクトル。 3640 cm-1 付近に非会合のメタノールの O-H 伸縮が見える。 NIST の webbookのスペクトルデータから作成。 1330 cm-1 以下は二硫化炭素で希釈したスペクトルとつなぎ合わせている。


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